清春 (ボーカル、本名:森清治、血液型:A型、1968年10月30日、岐阜県多治見市出身)
現(xiàn)在、ソロ活動中。
小林勝 (ベース)
現(xiàn)在、nilにて活動中。ザ・クロマニヨンズに參加。清春のソロデビューの際に打ち込み等の作業(yè)を手伝っていた。
小簡介
1999年1月黑夢宣布停止活后,清春與支援吉它坂下たけとも開始籌備新的樂團(tuán)。1999年4月SADS正式結(jié)成,最初成員由主唱清春,吉它坂下たけとも,鼓手牟田,貝斯手田沼組成。99年7月貝斯手田沼由于身體狀況不佳退出,同年發(fā)行了首張Major maxi single《tokyo》,第一周便取得非常好的成績,ORICON排名第二。首張專輯《sad blood rock'n roll》1999年9月發(fā)售,ORICON排名第三。2000年月12月7日BATTLE ROCKERS FINAL『Conclusion of my BABYLON』大阪LIVE原支持貝斯手小林勝正式加入。2001年3月鼓手牟田退出樂團(tuán),4月鼓手滿園英二正式加入。2001年4月SADS離開EMI加入BMG,2002年4月SADS與BMG提前解約,所以《untitled》作為INDIES碟僅在LIVE上發(fā)售,很難入手。2003年SADS正式宣布加入環(huán)球唱片公司。
1999年1月29日に黒夢が無期限活動停止。黒夢のボーカルであった清春が黒夢活動停止後すぐさま始動させたのがこのSADSである。バンド名は清春が敬愛する日本のロックバンド「THE MODS」にあやかったもの。ボーカルの森山達(dá)也にもバンド名について事前交渉し、快諾を得ている。その年の7月にシングル「TOKYO」でデビュー、オリコン初登場2位を記録する。2000年、ドラマ『池袋ウエストゲートパーク』の主題歌だった4thシングル「忘卻の空」がロングヒットを記録。同年6月に発表したセカンドアルバム『BABYLON』でオリコン初登場1位を獲得し人気の高さをみせつけた。2001年にレコード會社を東芝EMIからBMGファンハウス)に移籍、2002年はインディーズでの活動を経てユニバーサルミュージックと契約。
2003年にベストアルバム「GREATEST HITS」を発売した後は満園英二脫退のためSADSのドラム探しをしながらソロ活動をしてSADSを再開させるつもりが、2004年にギターの坂下たけとものFULLFACE退社に伴う事実上の脫退により無期限の活動休止となる。
その後SADSの未発表曲音源がアレンジされたものや一部分を使われた曲などが清春のソロ作品として発表される。また清春の著書・雑誌のインタビューで既に過去のものとして扱われている現(xiàn)狀を見る限り、バンドは事実上解散したものと思われる。
大事件
1999年 デビュー~ファーストツアー
黒夢の無期限活動停止から數(shù)ヵ月後、SADSが始動する。結(jié)成メンバーは清春、坂下たけとも、田沼徹浩、牟田昌広の4人。始動するや否や、いきなりUKツアー(全4公演)を敢行する。日本での正式なデビュー前であり異例のことであった。このUKツアーを期に、ベースの田沼徹浩が脫退する。理由は「體力上の問題」とされている。
全公演終了後帰國し、「DEMONSTRATION CLUB GIG」(全國6會場6公演)を敢行する。日本國內(nèi)ではSADSの初のお披露目となる。ちなみに1本目の最後では清春本人が客席にダイブを行った。
7月に「TOKYO」(オリコン初登場2位)のリリースでメジャーデビューを果たし、1stアルバム『SAD BLOOD ROCK'N'ROLL』(オリコン初登場3位)を引っ提げ、初の全國ツアー「THE FIRST TOUR"Smash It Up"」(全國27會場29公演)に突入する。なお、サポートベーシストとして山根浩成が加わる。このツアーでは坂下らによる「バットマンのテーマ(ザ・ジャムのカバーアレンジで演奏)」や、「Liberation」の原型となる「Go!」などが披露されている。だが、このツアーによって清春が黒夢時代から抱いていたバンドに対する一種の憧れは決定的に崩れ去り、失望の大きいツアーとなった。(「活動停止~解散」の項目參照)
2000年 2度のBATTLE ROCKERSツアー
この年はSADSにとって、年末カウントダウンライブの「21st Century NIGHTMARE"」までライブ中心の一年となる。限定シングル「赤裸々」(オリコン初登場2位)をリリースし、2000年前半は「Battle Rockers" PART1」(全國23會場29公演)、「FANCLUB「RUBBERSOLE」ONLY LIVE」(東京・大阪・名古屋・3公演)、「TOKYO 7DAYS SPECIAL STANDING GIG」(都內(nèi)7會場7公演)をこなす。この期間中にリリースした4thシングル「忘卻の空」(オリコン初登場2位)が、TBSにて放映されたテレビドラマ『池袋ウエストゲートパーク』の主題歌となる。同ドラマの視聴率が平均14.9パーセントと好調(diào)だったこともあり、結(jié)果的にSADSの知名度を一気に高ると共に、代表曲とのイメージがすっかり定著した。
「忘卻の空」のヒットの勢いに乗って、2ndアルバム『BABYLON』でオリコン初登場1位を獲得する。この時期がSADSにとってセールス上のピークであったと言える。
2000年後半から「BATTLE ROCKERS PART2~WELCOME TO MY BABYLON~」(全國46會場50公演)(以下、バビロンツアー)が行われた。同ツアーはこれまでと違いホール公演であり、そのステージではお経のSEを流し、清春がお香を焚くパフォーマンスなどこれまでとは打って変わってダークな色合いが濃くなってくる。また同ツアーには多大な費(fèi)用を要したことで有名である。ステージ上で孵化する卵や、特に最終公演の大阪城ホールで清春が十字架に張り付けられながら歌い、曲中の電気処刑やSMショーなどのパフォーマンスをおこなった。
同ツアーでも演奏上の問題は一向に解決の兆しは見えなかった。特にドラムの 牟田昌広に対する清春の苛立ちがあからさまになる。彼が演奏を間違えて清春に詫びるシーンや、苛立ってパイプ椅子を蹴り上げる様子がツアーDVDでも見られる。果てには、MCにて「今日の牟田君は最高です。高校生レベルです!工嚷─椁工郅身旤cに達(dá)していた。さらに、大阪公演ではノリの悪いオーディエンスに愛想を盡かし、アンコール半ばで公演を終了するなどバンドの雰囲気はどん底であった。
バビロンツアーの明るい材料と言えば、2000年初めのツアーからサポートとして參加していたベースの 小林勝が追加公演の大阪城ホールを以って、正式メンバーとして加入することが発表されたことだろう。これまで交代を繰り返してきたベースがようやく固まることになる。
余談だが、「BABYLON」リリース時に一定の売り上げ枚數(shù)を越えた場合、SADSの広告宣伝料を増加する條件を東芝EMIサイドから提示されていた。結(jié)果的に、あと一歩のところで條件枚數(shù)に到達(dá)できなかったことを「清春35X」でのインタビューで語られている。また、この年11月にリリースした両A面シングル「NIGHTMARE / FINALE」は映畫『漂流街』のオープニング、エンディング雙方の主題歌となった(『漂流街』には清春に役者として出演のオファーもきていた)。
2001年 満園加入~ヘヴィ・ロックへの傾斜
2001年3月31日付けを以って、「方向性の違い」という理由で牟田昌弘の脫退が発表される。後任にはかつて黒夢のサポートメンバーであった 満園英二を迎える。こうして、バビロンツアーの「FOR YOU」や「Darkness is my spiral mind」で見せたダークさに、満園の加入でヘヴィさが加わった。
バンドとして新たな船出を迎えたSADSは、同時に東芝EMIからBMG JAPANへレコード會社を移籍した。レコーディングを終え、米國の有名エンジニアを頼ってミックスダウン作業(yè)のためロサンゼルスへ旅立った。ところが、このロサンゼルス遠(yuǎn)征は失敗に終わる。清春によると前出のエンジニアのミックスは「日本のロックを舐めてる」との事で、結(jié)局日本に戻って舊知のエンジニアに依頼することになる(この時のミックスは「THE ROSE GOD GAVE ME(LA MIX VERSION)」で聴く事が出來る)。結(jié)果的に、このロサンゼルスの一件で數(shù)千萬円の損失を発生させることとなった。
そうしたトラブルを乗り越え、シングル「PORNO STAR」(オリコン初登場5位)、「APPETIZING 4 SONGS EP」(オリコン初登場9位)、そして3rdアルバム『THE ROSE GOD GAVE ME』(オリコン初登場5位)をリリースし、ツアー「"THE STAR STRIP"」(シークレットライブ2本含め、全國31會場32公演)に突入する。同ツアーの栃木公演では、清春と昵懇の間柄であるT.M.Revolutionの西川貴教が登場するサプライズがあった。また最終公演「"THE STAR STRIP"FINAL」では日本武道館での公演を果たす。THE MODS、矢沢永吉のトリビュートアルバムにも參加するなどバンドとして充実した一年であった。
なお、『THE ROSE GOD GAVE ME』に収録されている「See A Pink Thin Cellopfane」のプロモーションビデオは當(dāng)時お蔵入りになっていたが、「リクープ」発売の際に「未発表PV」として収められている。
2002年 インディーズ~131本のロングツアー
2002年は、風(fēng)雲(yún)急を告げる事態(tài)で幕を開ける。前年に契約を交わしたBMG JAPANとの契約を解消した。このため、4thアルバム『”untitled』はライブ會場限定販売とFC通信販売のみという、実質(zhì)インディーズバンドとしての活動を余儀なくされる。清春は、同アルバムを正規(guī)の流通網(wǎng)で販売しようと試みたが、同年のロングツアーに忙殺されてそれが出來なかったと後のインタビューで語っている。
2002年のツアー「TOUR GOOD-BYE 2002!!"BEAUTIFUL DAYS"FOR HEAVY PETTIING&FOR ENTERTAINMENT」は、2002年4月からの12月までライブハウス131公演(HEAVY PETTIING)と翌年1月2月のホール10公演(ENTERTAINMENT)まで続く、全141公演(沖縄を除く46都道府県)という過去に例がないほどのロングツアーが組まれた。同ツアーの目的は、「ライブの本數(shù)をこなすながらバンドとしての音を固めていく」(清春談)、「3人がSADSに居ることが相応しいかどうかが問われる」(坂下談)と、それぞれ目的があった。快調(diào)に進(jìn)むかに思われたが、ツアー序盤から早くもメンバーの技術(shù)的な問題が表面化する。小林勝は「バンドの問題點について敢えて何も言わなかったが、それは失敗だった」と悔いていた。注目すべき點は、この年から清春がアコースティックギターを本格的に始めた事である。「Everything」や「Masquerade」、「憂鬱という名の夢」といった曲などでギターを弾きながら歌い始めている。バンド內(nèi)の問題やライブのマンネリ化に対し、日々ギターに觸れることでそれを忘れることが出來、清春にとって癒しになっていたとDVD『131days』內(nèi)のインタビューで語った。
ツアーも中盤に差し掛かった頃、満園が泥酔し、腕枕をしたまま眠りに落ちてしまい、左腕神経麻痺を発癥する。公演日程のキャンセル・振り替えを余儀なくされる(満園の一件で、當(dāng)初予定されていた翌年の10公演は中止となる)。當(dāng)初は短期間で回復(fù)が見込まれると思われたが回復(fù)の目途が立たない為、急遽サポートメンバーとして舛岡圭司を迎えてツアーを再開する。彼のスタイルは、豪快でパワフルな満園のそれとは対照的であり、彼から何かを?qū)Wび得ようと、敢えて満園とタイプの異なるサポートメンバーを加えた背景があった。満園が復(fù)帰するまでの約60本のライブを「外の庭、外の景色を観ていた」と清春は表現(xiàn)している。また、満園の怪我による振り替え公演で數(shù)回行ったアコースティックライブを通して、清春自身は楽器としてのヴォーカルではない、歌を歌うことについて改めて考えさせられる。この時期を境に、「NOTHING」や「Sherry」といったミドルテンポの曲の心地よさに気づくことになる。
舛岡の加入はバンド內(nèi)に吹き込んだ新しい風(fēng)であったが、多くのライブをこなす內(nèi)に段々と慣れ、惰性的なライブが再び訪れる。そんなバンドの雰囲気や一向に改善が見られない演奏、何となく観ているオーディエンス、スタッフに対する清春の積もりに積もった不満が爆発する。9月29日の新宿LIQUIDROOM(當(dāng)時)公演中盤、ステージ上にあった照明器具が倒れ、清春にぶつかる。この點を境に、マイクを放り投げたりドリンク臺を蹴飛ばすなど、ステージ上での苛立ちがあからさまになる。さらに本編途中でセットリストを変更し、本編最後では自らドラムセットに倒れこみ、器材を破壊しアンコールを行えない狀態(tài)となった。當(dāng)時の心理狀態(tài)を「緊張の糸が一瞬切れた」と語っている。この後も清春はヴォーカルとして、リーダーとしてSADS內(nèi)での自身の孤獨(dú)感を深めてゆく。同時にステージ衣裝が、それまでのシャツやジーンズといったラフなものから、スーツやネクタイといったフォーマルなスタイルに変化している。
サポートの舛岡にバンドが慣れてきたツアー終盤、左腕麻痺が回復(fù)した満園が復(fù)帰し合流する。満園の復(fù)帰はファンとしては嬉しい出來事ではあったが、SADSとして3人が重ねてきたツアーは、またゼロからの仕切り直しとなる。この時の心境を「この(満園復(fù)帰)日はとても辛かった」(清春)、「ゼロからのスタート」(小林)と語っている。しかし満園の復(fù)帰後、バスドラムの大きさやギターをストラトに持ち替えたりといった、楽器隊で一種のバンド內(nèi)改造の動きが始まる。「長いツアーを通じて、バンドの音を確立」させるという當(dāng)初の目的に近づきつつある瞬間であった。翌年行われるはずであった10公演は中止となってしまったものの、この131公演はSADSにとっては新たな発見をもたらしたツアーであった。なお、同ツアーの最終公演では小林の第一子誕生報告と、ユニバーサルミュージックとメジャー契約を交わし、翌年のニューアルバムのリリースがMCにてアナウンスされた。
2003年 13ツアー~活動休止
5thアルバム『13-thirteen』のレコーディングが始まる。しかし、レコーディング途中またしても満園が體調(diào)不良により休養(yǎng)を余儀なくされる。このため、昨年のツアーで披露した新曲を新たに録り直すことが不可能になり、アルバム収録曲の大半は不本意ながらも『“ ”untitled』と同時期に録ったものを収録という形となった。清春は「(満園の離脫を)予期しておらず、(満園の體調(diào)不良を)見抜けなかったのは最大の失敗」と述べている。結(jié)局、今回のレコーディングで満園が參加した楽曲は、「Sherry」と後に9thシングルとして発売される「Masquerade」のイントロ部分に留まった。なお、同シングルのカップリング曲の「楽園」では小林が打ち込みを行い、「Everything」のアコースティックバージョンを収録することで急場をしのいでいる。
リリースを終え、SADSはツアーの準(zhǔn)備段階へ突入する。ツアーに向けて作成された新曲は実に30曲近くに上ったという。これは、リリース→ツアーという一般的な流れではなく、順序を逆転させることでツアーの成果をフィードバックしたアルバムの制作を意図していた。ツアーでは全曲を新曲で行おうかと考えていたが、「それだと『ショー』ではなく、『実験』になってしまう(笑)」(清春)という理由から斷念している。
「TOUR 2003『13』-Thirteen-」(全國8會場13公演)では、満園に代わり昨年もサポートとして參加した舛岡圭司が再び加わる。同ツアーはこれまでに比べ公演數(shù)が異常に少ないほか、アルバム・ツアータイトルが意味する13階段の不吉さに加え、メジャーデビューから5年目で無期限の活動停止を迎えた黒夢と同じ年月を迎えたことで、様々な憶測を呼ぶ。ツアーに先駆けて「REPLAY」と題して行われたライブでは、これまでの4年間を振り返るかのようなセットリストが組まれたライブであった。
ツアーでは清春が予告していたようにライブで披露された曲の半數(shù)以上は下記の未発表曲であり、特に本編では序盤から中盤までの3分の2以上は新曲で占められていた。新曲では清春がエレキギターを弾きながら歌う曲が多く含まれていた。また、同ツアーのアンコールでは、黒夢時代の代表曲であった「少年」、「LIKE A ANGEL」、「MARIA」が披露される。これは、黒夢を支えてくれたマネージャーが急逝したのを受けて、弔いとして故人が好きだった曲を演奏したためである。特に「LIKE A ANGEL」の間奏では、清春が「聞こえてる?歌ってるよ。」と語る場面が確認(rèn)され、彼に宛てたものということを裏付けている。
13ツアー後は7月にベストアルバムを発売し、一旦、バンド活動は休止となる。清春がソロ活動に向けての準(zhǔn)備を開始するためである。ユニバーサルとの契約條件の一つに「清春のソロでデビュー」の項目があり、早い段階からソロ活動は規(guī)定路線であったと言える(ただ、この段階ではSADSは「一時休止」扱いで、遅くはない時期に再開されると思われていた)。なお、治療中であった満園は「回復(fù)の目途が立たない」として、同年8月を以ってSADSを正式に脫退している。
活動停止~解散
しかし、SADS再開の期待が何度かふくらむも、結(jié)局は自然消滅の形で活動停止となってしまう。
その原因の一つとして、13ツアー終了後、坂下らがSADSの元メンバーと新バンドの結(jié)成に加わったことが挙げられる。坂下、小林が元メンバーの牟田と友人らで「TOWER」を結(jié)成する。
(清春のソロデビュー後も小林はデビューライブ「第三の扉」に來場、坂下は清春1stアルバム「poetry」のレコーディングに顔を出している。
この件に関し、「本來僕(SADS)に対してお金を払うであろうファンに申し訳ない」と清春は語っている。つまり、SADSというブランドは清春自身に帰結(jié)するべきであるのに、元メンバーらと活動することでそのブランドが獨(dú)り歩きしてしまうのは、SADSを自分で動かしてきた清春にとって到底我慢のならないことであった。
インタビューで清春は「SADSは実質(zhì)僕+サポートメンバーだった。でもツアーを重ねる毎に彼らは何か勘違いしていってしまった。最後にはもうどうにもならなかった」という言葉を殘している一方で、坂下は「SADSは清春君のバンド」と自身はサポートメンバーだったということを語っている。
直接的な原因は、2002年に行われたロングツアーで背負(fù)った負(fù)債である。借金を含めたマネジメントの問題は全て清春自身が処理を行っていた!肛(zé)任を果たさないのに、あれこれ言う」(清春)との一言が、清春と他のメンバーとの意識の差を如実に物語っている。なお、この借金はツアー公演に関するものと思われていたが、その後の清春のインタビューによると、「ツアー中の移動は新幹線なら全部グリーン車、飛行機(jī)はビジネスクラス」といった贅沢を盡くした事も含まれていたことが判明している。
SADSの活動停止後、ZIGGYのボーカル森重樹一は「The DUST'N'BONEZ」結(jié)成のため清春に対し、「(坂下を)借りてもいい?」と連絡(luò)をし、清春もそれを快諾する。しかし、実際にドラムに脫退した満園が居ることを後から知り、坂下はThe DUST'N'BONEZに加入するとともにSADSを脫退。そして、The DUST'N'BONEZとしてのインタビューで坂下の脫退が坂下の口から正式に告げられた。発表が遅れた理由としてSADS側(cè)の方で都合のいい時期に発表すると思っていたと語っている。
このように解散の引き金は幾つかあったにせよ、清春自身はバンド結(jié)成後のファーストツアー後から一貫してSADSに対する虛無感を抱いていたことを「清春35X」をはじめとしたインタビュー內(nèi)で語っている。
THE ROSE GOD GAVE MEリリース前後など一時的にはバンドが楽しく感じた時期はあったものの、バンドサウンドやメンバーの技術(shù)的な部分に恒常的なフラストレーションを抱えていた。その様子は、ツアードキュメントビデオ『Document of “Welcome to my BABYLON”tour The INTRODUCTION 2000.8.5-2001.1.1』や『131DAYS』において、公演中に清春が荒れるシーンやインタビューで確認(rèn)出來る。また、2ndアルバム『BABYLON』は清春自身がSADS史上、唯一納得できる作品としてあげている。これはファーストアルバムとは対照的に、コンセプチュアルな內(nèi)容に清春が徹底して突き詰めた結(jié)果だと思われる。