現(xiàn)メンバー
KOME KOME CLUB
ジェームス小野田(小野田安秀) ヴォーカル、コーラス、ギター、サックス (文化學(xué)院時(shí)代-解散, 2006年4月- )
カールスモーキー石井(石井竜也) ヴォーカル、司會(huì)、コーラス (文化學(xué)院時(shí)代-解散, 2006年4月- )
BON(大久保謙作)<バンドリーダー> ベース (文化學(xué)院時(shí)代-解散, 2006年4月 - )
Be(林部直樹) ギター (1990年1月-解散, 2006年4月正式加入- )
RYO-J/リョージ (坂口良治) ドラムス (1985年6月-1995年4月, 2006年4月- )
ジョプリン得能(得能律郎) ギター、キーボード、鉄腕タヌキ(文化學(xué)院時(shí)代-1983年1月正式加入-1995年4月, 2006年4月- )
BIG HORNS BEE
フラッシュ金子(金子隆博) キーボード、サックス、フルート、三味線 (1987年7月-解散, 2006年4月- )
SUE CREAM SUE
MARI(マリ)天ヶ谷真利 踴り子、パーカッション、ヴォーカル
MINAKO(ミナコ)金子美奈子 踴り子、振り付け、ヴォーカル(石井の実妹であり金子の妻でもある)
K2C COUSIN
MATARO(三沢またろう) パーカッション、コーラス (1990年7月-解散, 2006年8月- )
MACHIKO(シタール・マチコ)(菅木真智子) コーラス(1991年2月-解散, 2006年8月- )
BIG HORNS BEE
河合わかば(河合伸哉) トロンボーン、サックス(1986年-解散, 2006年4月- )
織田ノボッタ(織田浩司) アルトサックス(1990年7月-解散, 2006年4月- )
フッシー小林(小林太) トランペット(1991年2月-解散, 2006年4月- )
シロー・ブラッキー(佐々木史郎) トランペット(2006年4月- )
脫退メンバー
博多めぐみ(坂本琢司) ギター(? - 1988年3月)
マル(丸山龍男) パーカッション(? - 1988年3月)
サトミ(松井聡美〈舊姓:青山〉) ダンサー(1984年 - 1988年3月)
ヒマラヤン下神(下神竜哉) トランペット(1986年 - 解散, 米米CLUB解散後、BIG HORNS BEEより脫退)
K2C COUSIN
1988年4月にはシュークリームシュが正式にメンバーとなって以來、米米CLUBのメンバーは8人という定義で活動(dòng)していた!8」という數(shù)にこだわり、1993年にはコンサート「THE 8TH OF ACE」で、デビュー8年目を記念し八角形の武道館で8日間公演を行った。1995年4月、その內(nèi)2人の脫退を境に、BIG HORNS BEEのメンバーやサポートメンバーも米米CLUBの一員であるというスタンスを取るようになり、正規(guī)メンバーとサポートメンバーの區(qū)別をやめた。コンサート毎に違うサポートミュージシャンが參加することが度々あった。以降はダンサーも増やしたため、メンバーの入れ替えや増加が激しく、彼ら自身ですら最終的に何人で活動(dòng)しているのか分かっていないことも多く、石井などはトーク番組で「うちはメンバーが何人いるのかわからない」とネタにしていたほどであった。
丘くらら(倉(cāng)丘孝尚) ギター(1988年 - 1989年)注1
BOSE(大儀見元)パーカッション(1988年 - 1989年)注2
ジュリアーノ奈良部(奈良部匠平) キーボード(1993年1月 - 1994年5月)
コータロー(竹下宏太郎) ダンサー、振り付け(1993年1月 - 解散)
シンジ(吉浦進(jìn)二) ダンサー、コーラス(1995年7月 - 解散)
トシ(高畠俊男) ドラムス(1995年5月 - 解散)
ジュリアーノ勝又(勝又隆一) キーボード(1995年5月 - 解散)
注1)當(dāng)時(shí)サポートメンバーといった位置づけでは無く、オーディションより選ばれ試験的に採(cǎi)用された。
注2)正式なサポートメンバーでは無く、ライヴのゲストミュージシャンであった。
BIG HORNS BEE
G.I.GYO・ロッキー多田(多田暁) トランペット(1986年 - 1988年)
アンデス村田(村田陽一) トロンボーン(1986年)
ビューティー近藤(近藤和彥) サックス(1989年 - 1990年4月)
小簡(jiǎn)介
米米CLUB(こめこめクラブ、英Kome Kome Club)は、日本の音楽バンド。略稱は 米米(こめこめ)、K2Cなど。1982年、文化學(xué)院の學(xué)生だった石井竜也、小野田安秀、大久保謙作、得能律郎らが中心となり結(jié)成され、1985年10月にレコードデビュー。ダンサーチーム「SUE CREAM SUE(シュークリームシュ)」、ホーンセクション「BIG HORNS BEE(ビッグ・ホーンズ・ビー)」、また多くのサポートメンバーを伴う大所帯バンドである。1997年3月に解散コンサートを行い活動(dòng)を停止したが、2006年4月に再結(jié)成。所屬レコード會(huì)社はソニー・ミュージックレコーズ。
音楽的にはファンク、ニュー・ロマンティック、落語、ロック、歌謡曲、フォークなど雑多な要素を融合したもので、特に江戸落語の影響を強(qiáng)く受けた石井のステージングはバンドの個(gè)性となっている。またコンサート中盤にジェームス小野田の登場(chǎng)シーンを設(shè)定する構(gòu)成も獨(dú)特で、毎回工夫が凝らされた小野田登場(chǎng)はコンサートのハイライトとなっている。
大事件
初期
バンドの前身は1979年-1981年に活動(dòng)した「A-Ken」という映畫研究會(huì)!该酌證LUB」というバンド名は當(dāng)時(shí)人気のバンド「トムトム・クラブ」を小野田が「コメコメクラブ」と言い間違えたことに周りが大ウケし、「そんなバンドあったら面白いよな」と言い合ったのが発端と言われている!鸽j誌などで注目してもらうため『※※クラブ』と名づけたが『米米クラブ』と誤表記されてしまった」という説もある。
1981年秋のある夜、大久保と小野田の2人は「米米クラブ」という架空のパロディバンドがあると仮定し、その時(shí)のノリで『私こしひかり』『奧さん米屋です』『夜泣き米屋』といったオリジナルソング10曲を作りテープに録音する。しかしそれはほんの軽い遊びであり、以降は2人の記憶から消えていった。1982年3月には文化學(xué)院を卒業(yè)。大久保は進(jìn)學(xué)、小野田は就職、石井は街頭パフォーマンスなどをして過ごしていた。だが、1982年10月頃に大久保と小野田がすっかり忘れていた「米米クラブ」の話を石井がどこからか聞きつけ、「"米米クラブ"ってバンドやろうぜ」と言い出し、それがあまりにしつこかったため、しぶしぶ大久保がリーダーとなり昔の音楽仲間を集め、何とかバンドとしての體裁を整えたのが始まりである。
1982年11月21日に慶應(yīng)義塾大學(xué)三田祭でオリジナル曲8曲と山本リンダの『狂わせたいの』を披露。その場(chǎng)限りのおふざけバンドのつもりが、観客の好評(píng)を得た。メンバーもライブに空間的総合蕓術(shù)の光を感じ、以後ライブハウスで活動(dòng)を重ね「謎のパフォーマンス集団」などと呼ばれテレビや雑誌にも登場(chǎng)して話題となり、1985年10月21日にシングル『I・CAN・BE』、アルバム『シャリ・シャリズム』でCBSソニー(現(xiàn)ソニー・ミュージックエンタテインメント)からメジャーデビュー。この頃シングル・アルバムや雑誌では「米米クラブ」と表記されていた。だが、デビューお披露目ライブ直前にドラムが脫退し、急遽スタッフが連れてきたcharがドラムを擔(dān)當(dāng)することになった。それ以降、charと米米クラブとは親密な仲となっていく。
この當(dāng)時(shí)はまだ駆け出しの新人バンドだったという事もあってか、楽曲レコーディングの際はプロデューサーの言うことを聞かざるを得ず、自分たちの思い通りに演奏やアレンジをすることが出來なかった!窹aradise」の歌詞が2種類存在したり「sure dance」のアレンジがライブとアルバムで違うのはこのためである。これに関しては當(dāng)時(shí)メンバーも皮肉を込めて「アルバムはライブとは別物」「ノベルティみたいなもの」などと語っている。
余談だが、フジテレビの冗談畫報(bào)で「sure dance」のパロディ版「syunou dance」(収納簞笥)を披露。歌詞はもちろん振りつけ有りであった。 ミニアルバム収録の「Paradise」→「parodies」等、後述の“イロモノ”扱いはこういうところにもあらわれている。
ファンクミュージックをベースとした楽曲、演奏技術(shù)、メンバーの音楽センスは、高く評(píng)価する聲もあったが、奇抜な衣裝やメイク、コントのようなMC、キャラクター重視で寸劇混じりの演出などにより、デビュー當(dāng)初は“イロモノ”として扱われることが多かった。當(dāng)時(shí)同じソニー系列のレコード會(huì)社に所屬していた聖飢魔II、爆風(fēng)スランプと合わせて「ソニー三大色物バンド」と呼ばれていたこともあった。
全盛期
1988年にはシングル『KOME KOME WAR』、アルバム『GO FUNK』が、1989年にはシングル『FUNK FUJIYAMA』、アルバム『5 1/2』が売上ランキング上位に入り、1990年、JALのCMソングに使用された『浪漫飛行』がスマッシュヒット。次第にJ-POPバンドとして世間に認(rèn)知されるようになった。ただ、世間でヒットした所謂売れ線系統(tǒng)の曲だけでなく、マイナーでディープなソーリー曲と呼ばれる楽曲も存在していた。ソーリー曲とは「ふざけた曲を歌っても、すぐに"Sorry"と謝り許してもらおう」「謝ってしまえば何でもあり」というような志向で作られた楽曲群であり、元々は「ウンコ曲」「企畫物曲」と呼ばれていた。
アルバム名はユニークなタイトルが多く、ファーストアルバム『シャリ・シャリズム』(SHARI-SHARITHM)は、米米CLUBの活動(dòng)のために立ち上げた個(gè)人事務(wù)所の名稱(SHARISHARISM)でもあり、「米(シャリ)+リズム+〜イズム」の造語。セカンドアルバム『E・B・I・S』は、個(gè)人事務(wù)所(SHARISHARISM)が恵比壽にあることから。他にはもじりを多用し、『KOMEGUNY』はロサンゼルスでレコーディングをしたことから「アメリカ=米國(guó)=こめぐに」、『GO FUNK』は「ご飯食う」、『5 1/2』は「5半=ご飯」、『聖米夜』は「精米屋」、『Phi II』は「Fights」、ラストアルバムは『PUSHED RICE』は「押米=おしまい」などダブルミーニングなどを多用した凝ったものが付けられた。ファンクラブ名も「米米CLUB」をもじり「COME COME CLUB」(カムカムクラブ)という名前だった。
コンサートも他のバンドとは位置付けが大きく違い、「音楽を演奏するためのコンサート」というより「エンターテイメントショーのメインが音楽」というスタンスであり、「何よりもライブが活動(dòng)の中心」という意識(shí)を強(qiáng)く持ち続けていた。多くのコンサートで2パターンないし3パターンの演出を準(zhǔn)備し、セット・衣裝・曲目ともすべて違うものを日替わりで行うなどショーへのこだわりは徹底しており、リハーサルは本番と寸分違わずに行っていたという。コンサートツアーのたびに新曲が披露されたが、最後までレコーディングされずコンサートでしか聴けなかった曲も多い。初期から演奏していた山本リンダの曲は最後まで人気が高く、小野田のボーカルで『狂わせたいの』『どうにも止まらない』などをよく演奏していたが、『狙いうち』などは原曲にはない3番を作詞して歌っていた。
また、ただ見せるだけではなく石井を筆頭とするメンバーのパフォーマンスにより観客をショーに巻き込む手腕も一流で、皆がシュークリームシュの振り付けを真似て踴ることも定番となり、アリーナクラスのホールでは壯観な客席風(fēng)景となった。観客が振り真似などをするコンサートは當(dāng)時(shí)まだ少なく、客席が舞臺(tái)と一體感を味わうための創(chuàng)意工夫がされたコンサートの先駆けであった。メンバーの衣裝を真似て自作しコンサートに著てくるコスプレイヤー達(dá)も多く、コスプレの先駆けでもあった。それらが話題となりコンサートのチケットは常に入手困難であったため、家庭用ビデオの普及も背景に、コンサートを収録したビデオの発売が熱望された。カメラを何臺(tái)も使って撮影し、映像作品としても評(píng)価されるコンサートビデオを制作した。
後期
1992年、フジテレビ月9ドラマ『素顔のままで』の主題歌に『君がいるだけで』が起用され、300萬枚近くの大ヒットを飛ばすと、米米CLUBの知名度は一気に上昇し、ファン層は拡大、それ以降の曲は広いファン層や売上げを意識(shí)したものが多くなっていった。彼らの特徴であったコミカルな要素が減り、フロントマンの1人であった小野田の活動(dòng)は縮小、石井1人がメインボーカルを擔(dān)當(dāng)することが多くなった。そうした狀況の変化は、これまではバンド活動(dòng)を中心に行われてきた石井のアーティスト活動(dòng)が、映畫制作や個(gè)展といった公の場(chǎng)に移っていった。
そうした狀況の変化が原因となってか、1995年には結(jié)成當(dāng)初からのメンバーであった坂口と得能が脫退。米米CLUBの基本的姿勢(shì)として、すべての楽曲で「作詞・作曲(・編曲) 米米CLUB」とクレジットし、ギャラを全メンバーできっちり等分するというものがあったが、1993年頃から編曲の名義は個(gè)人名も出し、石井の映畫主題歌などでは石井個(gè)人名義でクレジットする、などの行動(dòng)があったことにより軋轢が生じたとの見方もある。
2人の脫退をきっかけに次第にバンド活動(dòng)に困難が生じ、翌1996年には一切のライブ活動(dòng)を行わず11月に解散の発表がされ、1997年3月5日・6日に東京ドームで行われた「THE LAST SYMPOSIUM」を最後に解散、以後各々ソロ活動(dòng)に入った。
再結(jié)成
2005年6月16日、古くから親交のあるCharの50歳のバースデーパーティーを開催するに當(dāng)たり、Charの息子であるRIZEのJESSEが、「サプライズで米米をやってほしい」と石井やメンバーに頼み、石井もCharに恩返しするという意味も込めて久々に演奏することになった。その際バンド名を「米米米CLUB」とし楽曲を演奏。10月21日にはデビュー20周年の日にファン投票によるリクエストベストアルバム『米 〜Best of Best〜』がリリース。その頃から石井がテレビやラジオの番組に出演した際、「米米に関して何か企畫している」というような発言が聞かれるようになった。2005年12月には青山のライブハウスでシュークリームシュの一夜限りの復(fù)活ライブが行われ、米米CLUBのメンバーがバンドとして出演した。また、特別ゲストとして小野田が出演し、往年のヒット曲を歌った。
2006年3月21日、石井のソロライブで米米CLUBのマスコットであった「ダブルドリブル」が登場(chǎng)し、「米米CLUB、はじめます!」と宣言。翌日午前0時(shí)丁度に公式サイトが立ち上がり「2006年4月1日から活動(dòng)開始」との発表があった。後期にバンドを去った得能・坂口も參加しての再結(jié)成となり、當(dāng)初10月まで期間限定の活動(dòng)と告知された。もう決して若いとは言えなくなったメンバーたちの「もうひと弾けしたい」という気持ちが再結(jié)成につながったという。その後3ヶ月連続のDVD付きシングル発売、大規(guī)模アリーナツアーなどを発表する。各シングルは全てオリコン10位以內(nèi)を獲得、ツアーチケットも全公演完売するなど大きな話題となった。
そうした反応にメンバーが手ごたえを感じ、10月22日に橫浜アリーナで行われたツアーの最終日には石井自ら期間限定を撤回し、活動(dòng)を継続することを発表した。公式サイトには10月22日付で「米米CLUB」名義の期間限定解除への経緯と解散撤回の決意を示すコメントも載せられ、翌年9月5日には再始動(dòng)後初となるオリジナルアルバム「komedia.jp」を発売、オリコンチャート10位を記録した。なお、この解散撤回宣言は「ソロ活動(dòng)はしない」という意味ではなく、石井をはじめとする各メンバーのソロ活動(dòng)も継続して行うとしている。
2007年の第58回NHK紅白歌合戦に第47回以來11年ぶりに出場(chǎng)。