姓 名:桑田佳祐
英文名: SangTianJiaYou
國(guó) 家:日本

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歌曲
56
專(zhuān)輯
56
評(píng)論

桑田 佳祐(くわた けいすけ、1956年2月26日 - )は、神奈川県茅ヶ崎市出身の日本のロックミュージシャン、シンガーソングライター。
小簡(jiǎn)介
南方之星主唱兼鍵盤(pán)手
1974年進(jìn)入青山學(xué)院大學(xué)參加民謠社結(jié)識(shí)關(guān)口和之,隔年大森隆志與原由子進(jìn)入青山學(xué)院大學(xué)就讀,也加入了民謠社,在幾次的樂(lè)團(tuán)組合解散之後,最後終于以「南方之星」為名參加歌唱比賽,獲得一紙唱片合約,并在1978年正式出道,以多首經(jīng)典歌曲「淚吻」、「海嘯」等叱吒日本樂(lè)壇至今。
身為「南方之星」主唱及吉他手的桑田佳佑也負(fù)責(zé)「南方之星」主要作詞作曲之大任,可謂「南方之星」靈魂人物。在1986年桑田佳佑與其他樂(lè)手合組KUWATA BAND,只限一年活動(dòng)。1987年展開(kāi)個(gè)人音樂(lè)活動(dòng)發(fā)行首次個(gè)人單曲「悲傷的心情」至今。1991年又因「Acoustic Revolution」演唱活動(dòng)而與小林武史等人組成「SUPER CHIMPANZEE」。
除了音樂(lè)活動(dòng)之外,自1993年以來(lái),桑田佳佑每年都為拯救艾滋舉行演唱表演活動(dòng),包括與奧田民生合作的「光的世界」及小孩先生的「奇跡的地球」。2002年12月1日他將與岸谷五朗、江角真紀(jì)子等人一起於日本武道館舉行「行動(dòng)救艾滋」活動(dòng)。
サザンオールスターズのリード・オフ・マンとして知られている!氦い趣筏违ē戛`』、『真夏の果実』、『TSUNAMI』などの名曲を數(shù)多く作り、歌う。作詞では愛(ài)、セックス、世相を風(fēng)刺的に表現(xiàn)し、時(shí)にエロティックであり、時(shí)にユーモラス・ナンセンスであり、時(shí)に切なく泣かせ、時(shí)にシリアス。楽曲それぞれで様々なタイプの歌詞を書(shū)く。作曲に関しても日本屈指のメロディメーカーとして知られており、洋楽の音楽性を日本のロックミュージックに適用させた楽曲は非常に高く評(píng)価されている。楽曲もロック調(diào)の強(qiáng)いものからバラードに至るまで幅広く、コンピューターなどを使った最先端の技術(shù)も取り入れながら多様な楽曲を提供してきた。ソロでの音楽活動(dòng)も精力的で、メジャーデビュー以來(lái)一貫して邦楽(J-POP)の第一線を走り続ける。音楽雑誌『ロッキング・オン』からは、ポップスの神なる稱(chēng)號(hào)を授與されている。また、日本の數(shù)々のミュージシャンに影響を與えており、本人が「桑田さん(サザン)のファンです」「影響を受けています」など公言したミュージシャンも多數(shù)にわたる。
青山學(xué)院大學(xué)在學(xué)中よりバンド活動(dòng)を盛んに行い、「溫泉あんまももひきバンド」「脳卒中」「ピストン桑田とシリンダーズ」「青學(xué)ドミノス」など多くのバンドを結(jié)成しては潰しを繰り返し、最後に結(jié)成したサザンオールスターズが現(xiàn)在まで続く。「サザンオールスターズ」というバンド名は友人がつけたもの。
プロレスファンでアントニオ豬木を敬愛(ài)している。豬木とは幾度か共演も果たしている。ライブの煽りではスタン・ハンセンの決め臺(tái)詞「ウィー!」や、豬木の決め臺(tái)詞「1、2、3、ダー!」を叫ぶのが定番。2007年、「WONDA」(アサヒ飲料)のCMで(合成映像の)ジャイアント馬場(chǎng)と“共演”した際に馬場(chǎng)から“十六文キック”を浴びせられた。
サザンが実力派バンドとして認(rèn)知されてからも、本人は一貫して下ネタ好きの三枚目なキャラクターを通しており、ある意味ミュージシャンらしくない気取らない性格がファンから愛(ài)されている。ライブでは客席に向けての「ヤらせろ!!」や、「乳首見(jiàn)せろ!」「パンツ脫げ!」などのセクハラ発言は恒例で、テレビ番組出演の際に放送禁止用語(yǔ)を言ってしまうこともある!篢HE 夢(mèng)人島 Fes.2006』ではWOWOWの生放送にも関わらず放送禁止用語(yǔ)を言ってしまった。他にもミュージックステーションのゲスト出演時(shí)に浜崎あゆみにセクハラしたりTVでも下ネタ好きである。この発言はアミューズの後輩に當(dāng)たるポルノグラフィティの新藤晴一にも影響を與えており、2005年頃新藤はそのことを雑誌の中で公表している。
特に、自身のラジオ番組『TSUNEISHI GROUP SATURDAY NIGHT CRUISE 桑田佳祐のやさしい夜遊び』(TOKYO FM製作)では毎週のごとく下ネタを連発している。(場(chǎng)合によっては放送禁止コードを超える事もある。)お題がセクシー路線の場(chǎng)合、リスナーからの投稿はほとんど、桑田が思わず放送禁止用語(yǔ)を言ってしまいそうなネタが多い。番組內(nèi)の企畫(huà)である『1.2のサザンクイズ』では、選択肢に放送禁止用語(yǔ)やセクハラまがいの內(nèi)容が入っているのが恒例。
なお、同じアミューズ所屬の福山雅治と同じく、大のアダルトビデオ好きであり、夏目ナナや及川奈央の大ファンとラジオで公言している。2003年の桑田の誕生日で、福山から及川奈央の2枚組DVDをプレゼントで貰ったこともラジオで言っている。この『 - 夜遊び』では、リスナーにおねだりして食品や寫(xiě)真集などを、TOKYO FM宛にお願(yuàn)いしたために、妻の原から「ラジオでおねだりするのはもうやめて」と言われたことがあった。
ライブや音楽番組では、高い頻度で歌詞を間違える。ライブで歌詞や段取りをよく間違えることは本人も自覚しているらしく、「間違えた時(shí)はスタッフを睨みつけてスタッフのせいにする」と自らコメントしていたが、視聴者向けのネタなのか本音なのかは不明。
レコーディングなどではギターを擔(dān)當(dāng)することがほとんどだが、時(shí)にベース、ドラムス、キーボードなども演奏するマルチプレイヤーでもある。特に、ソロ名義の『素?cái)长饰磥?lái)を見(jiàn)て欲しい』や『MUSIC TIGER』などは、桑田1人ですべての楽器が演奏されている。
ギタリストとしてクローズアップされることは比較的少ないが、ボトルネックによるスライドギターのプレイヤーとしても知られ、サザンのライブでも曲の間奏で、度々その姿を確認(rèn)することができる。KUWATA BANDのライブでもギター演奏を披露した。しかし、本人によると「コードとかはよくわからない」という。
1980年代から1990年代前期まで、ライブや音楽番組などでは時(shí)にステージに寢転がったり飛び跳ねたりの不可解で激しい、過(guò)剰ともいえるパフォーマンスが特徴であった。MCや曲中の煽りなども、所謂「縦ノリ」の男臭いロックミュージシャンらしい姿が見(jiàn)られていたが、1993年から1995年あたりを境に、「おどけた中年オヤジ」としてのキャラクターを前面に出すようになり、ライブやラジオ番組でも下ネタやオヤジギャグを連発することも多くなった。近年は激しい動(dòng)きは少なくなった反面、ギターのソロプレイを魅せる割合が多くなり、加齢と共に味わい深いギターを聴かせている。かつてはライブ終盤(pán)での客席への紙コップ(エスカレートした場(chǎng)合は消防用のホースでの放水)の水撒きも定番であった。これは2005年ミュージックステーション出演の際に「花火や火薬等は制限があるが、水は制限は無(wú)い。これ以上スケールの大きいものは水しかない考えられない」と桑田は語(yǔ)っている。
曲作りはほとんどが曲先である。デタラメ英語(yǔ)などの仮歌段階のまま、編曲までほぼすべてを終わらせたのち、仮歌の語(yǔ)感を崩さない言葉を選んで、そこから歌詞全體のテーマ・世界感を決める。そのため、日本語(yǔ)・英語(yǔ)ともに文法的には間違っている歌詞も多々あり、間違いを指摘されたり「意味が分からない」等と批判されることもある。これは文章の正確さよりも、語(yǔ)呂の良さ・符割などを優(yōu)先させるが故の結(jié)果である。古文・方言・都々逸も用い、メロディに合う言葉がないのなら造語(yǔ)を自分で作ってしまうこともある。
また、英語(yǔ)と日本語(yǔ)とのダブル・ミーニングも取り入れている。楽曲は歌詞カードも含めての作品なので、歌詞カードもじっくり読んで欲しいとの思いも込められている。
作詞の際には、作品中やタイトルに人名を登場(chǎng)させることも多い。特定の人物を讃えた曲もあるが、名前のみを身近な人物または縁の人物の中などから、歌詞全體とメロディに合う語(yǔ)感として引用し、特定の人物は指していない場(chǎng)合が多い。前者は『吉田拓郎の唄』『星空のビリー・ホリデイ』『Dear John』『唐人物語(yǔ)』など。後者は『いとしのエリー』『チャコの海岸物語(yǔ)』『そんなヒロシに騙されて』『MARIKO』『シュラバ★ラ★バンバ』『可愛(ài)いミーナ』ほか多數(shù)の曲で使われている。
サザンとソロ、それぞれの活動(dòng)を數(shù)年毎のローテーションで行い、どちらともセールス・ビジネス的にも成功を維持し続けることができる稀有なミュージシャンである。しかしながら、それゆえにサザンとソロとの活動(dòng)の違いが分かりづらい場(chǎng)合も多い。この疑問(wèn)に対して桑田は、サザンのメンバーやサザンとしての活動(dòng)は家族・家庭であり、ソロ時(shí)のサポートメンバーおよびソロとしての活動(dòng)は愛(ài)人と逢っているようなものと例え、サザンの楽曲やソロの楽曲はそれぞれの間で生まれた子供達(dá)だと表現(xiàn)をしている。また、プロレスラーの武藤敬司にも例え、サザンの時(shí)は素顔の武藤として戦い、ソロの時(shí)はペイントをしてグレート・ムタとして戦うとも表現(xiàn)している。
また、ソロ名義で出演するライブやフェスティバル、単獨(dú)名義で行っている自身のラジオ番組のライブなどでは、サザン名義の楽曲も演奏されることがある。この點(diǎn)に関してファンからは「ソロのライブでサザンの曲を唄わないで欲しい」との意見(jiàn)もあったが、その意見(jiàn)に対して桑田は「ファンの気持ちも分かるんですけど、『?jiǎn)hったっていいじゃん、どっちでもいいじゃん』て思う時(shí)も実はあるんですよね」とインタビューで応えている。ソロ名義で行うワンマンライブやツアーでは、基本的にサザン名義の楽曲が歌われることは少ない。1986年のKUWATA BANDのときは、ライブでサザンの曲を封印していたが、1988年のサザン復(fù)活ライブでは、途中に桑田ソロコーナーを設(shè)け、「スキップ・ビート」も歌っていた。
大事件
バンド活動(dòng)と並行したり休業(yè)しつつ、ソロ活動(dòng)を行っているが、活動(dòng)期によりテーマやコンセプトを大きく異なることで、サザンオールスターズとの活動(dòng)とは特に一線を畫(huà)している。
1986年のKUWATA BAND結(jié)成時(shí)には、桑田が「ロックを唄うのは英語(yǔ)しかない」と考えが行き著いた頃で、英語(yǔ)詞の洋楽テイストにこだわっていたこともある。その結(jié)果、KUWATA BAND唯一のスタジオアルバム『NIPPON NO ROCK BAND』は、日本語(yǔ)詞中心に構(gòu)成されたシングル曲は一切収録せず、全曲新曲の全英語(yǔ)詞アルバムになった。しかし発売後しばらくは、自身も完成度に満足していない旨の発言が目立っていた。その後、考え方に変化が見(jiàn)られたのか、現(xiàn)在ではソロ名義のコンサートでKUWATA BANDの楽曲(シングル曲のみ)が演奏されることも多くなっている。
1987年 - 88年の第1期ソロ活動(dòng)では、前年のKUWATA BANDの方向性とはうって変わって、ミュージックシーケンサープログラミングや打ち込み中心のポップス路線を展開(kāi)した。小林武史との共同作業(yè)によって築かれたこの方向性は、後年のサザンでの活動(dòng)にも影響を與えた。また、ダリル・ホール&ジョン・オーツとの共演も話題となった。
1993年 - 94年の第2期ソロ活動(dòng)は、それまでの活動(dòng)とはさらに異なり、期間中に母親が亡くなったことの影響による內(nèi)省的な世界観や、辛辣な風(fēng)刺を前面に押し出した歌詞は、サザンでの活動(dòng)とはかけ離れた、ソロならではの方向性を打ち出した。サウンド面でも、小倉(cāng)博和との共同作業(yè)による、楽器本來(lái)の音に著目したアコースティック(アンプラグド)・フォーク路線を展開(kāi)した。
2001年 - 2002年の第3期ソロ活動(dòng)は、前半と後半でさらに方向性が異なった。前半の2001年は、サザンとの差別化にはこだわらなくなった。この時(shí)はサザンでのメンバー脫退による移行があったため、もともとサザン名義で発表する予定だった楽曲を、ソロ名義で発売したものもある。また、逆にソロワークとして製作していた楽曲を、のちにサザンとしてカラーやアレンジを加えて発表した曲も生まれている(戀するレスポールなど)。後半の2002年は、斎藤誠(chéng)らサポートメンバーで結(jié)成されたTHE BALDING COMPANYとの共同作業(yè)による、バンド形態(tài)の本格派ロック路線を展開(kāi)した。ここでもサザンでの活動(dòng)との差が色濃く出ている。CMタイアップとの関係で、思い切りポップ寄りな曲に挑戦した2001年に対し、2002年に発売された作品は、シングル・アルバムともに歴然とテーマの違いが出ている。2001年に発表された楽曲はアルバムに収録されることなく、ソロ活動(dòng)の集大成として発表されたベストアルバムに収録された。
2007年の第4期ソロ活動(dòng)は、楽曲的にはサザンとの差別化は特に図られていない。この4期目のソロ活動(dòng)について桑田は、ラジオ番組や音楽雑誌インタビューなどの各メディアにおいて、『來(lái)年のサザン30周年に向けての足懸かりとしての期間』という旨のコメントをしている。なお、この時(shí)期のソロ活動(dòng)でオリジナルアルバムは発表されていない。
2008年3月23日に、沖縄県・石垣島で行われた桑田の特別ライブ「Meet the Music 2008! 全國(guó)民放FM53局&KDDI present 桑田佳祐 アコースティックライブ in 石垣島」の模様が日本全國(guó)の民放FM53局(JFN系列38局、JFL系列5局、MegaNet系列4局および獨(dú)立局6局)で同時(shí)生中継された。これは、全國(guó)の民放FMラジオ全局で構(gòu)成する「全國(guó)FM連合」がKDDIの特別協(xié)賛によるキャンペーンの一環(huán)として、TOKYO FMが幹事局となって製作。系列の異なるFMラジオ局が、ネットワークの垣根を越えて1人のアーティストのライブ中継を放送するのは、史上初の試みである。
1956年
2月26日、神奈川県茅ヶ崎市に生まれる。
1977年
サザンオールスターズとして、アマチュアバンドのコンテスト「ヤマハEastWest'77」に出場(chǎng)。ベストボーカル賞を受賞。この時(shí)に決勝で対戦したのは、シャネルズの鈴木雅之だった。
1978年
6月25日、ビクター音楽産業(yè)よりサザンオールスターズとして『勝手にシンドバッド』でメジャーデビュー。
1979年
「オールナイトニッポン」(ニッポン放送などNRN全國(guó)ネット)木曜1部を擔(dān)當(dāng)。
1980年
スペクトラムのギタリスト・西慎嗣のソロアルバム『NISHI』をプロデュース。
1981年
生理用品アンネナプキンのCMに出演。
タモリのシングル曲『狂い咲きフライデイ・ナイト』を楽曲提供。
3月、渋谷eggmanにて、嘉門(mén)雄三の変名で『嘉門(mén)雄三&Victor Wheels』としてライブを行い、洋楽のカバーを歌う。メンバーは桑田・関口和之・斎藤誠(chéng)・國(guó)本佳宏・宮田茂男・今野多久郎。原由子も數(shù)曲參加した。
自身がプロデュースした原由子初のソロシングル『I LOVE YOUはひとりごと』が卑猥な歌詞のため、放送禁止曲に。ビクタービル屋上にて抗議のゲリラライブを行うが、警察が出動(dòng)するなどの騒ぎとなる。
1982年
2月26日、原由子と入籍。28日には結(jié)婚披露宴も行う。會(huì)場(chǎng)にはファンを招待し、タモリ、ラッツ&スターなどの蕓能人も出席した。
小林克也率いる「ザ・ナンバーワン・バンド」の1stアルバム『もも』にて曲を提供。また『六本木のベンちゃん』ではボーカルも擔(dān)當(dāng)。
中村雅俊に『戀人も濡れる街角』を提供。
12月31日、NHK紅白歌合戦での三波春夫パフォーマンスが物議を醸す。『チャコの海岸物語(yǔ)』でサザンとして2度目の紅白出場(chǎng)を果たした際のものであり、當(dāng)時(shí)の「紅白=厳粛な雰囲気」という等式を打ち破るきっかけとなった。この時(shí)の間奏での桑田の発言は以下のとおり。
「國(guó)民の皆様、ありがとうございます。私たち放送禁止もたくさんございますが、こうしていけしゃあしゃあとNHKに出演させて頂いております。とにかく、受信料は払いましょう!裏番組はビデオで見(jiàn)ましょう!!」
研ナオコが歌った「夏をあきらめて」で第24回日本レコード大賞作曲賞受賞。
1983年
親交ある明石家さんまが「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系)で演ずるアミダばばあのために、『アミダばばあの唄』を提供する。レコーディングでは桑田と原がコーラスを擔(dān)當(dāng)した。レコード會(huì)社が異なったため、長(zhǎng)年この事実は伏せられていたが、2008年さんまが「もういいやろ」と言って話してしまった。
高田みづえがカバーした『そんなヒロシに騙されて』が第25回日本レコード大賞・金賞を受賞。
1984年
「オールナイトニッポン」に復(fù)帰。火曜1部を擔(dān)當(dāng)する。
1985年
ラッツ&スターのメンバー全員の合同結(jié)婚式において媒酌人を務(wù)める。このときリーダー・鈴木雅之の父との會(huì)話が、後1996年のアルバム(サザン名義)『Young Love』に収録される『心を込めて花束を』を生むきっかけとなる。
6月15日、佐野元春なども參加したイベントライブ『ALL TOGETHER NOW』に飛び入り出演。段取り無(wú)視のパフォーマンスに佐野元春はあっけに取られたが、怒ってはいなかったという。
10月、サザンのツアー『KAMAKURA TO SENEGAL』で共演したトゥレ・クンダへのお禮の為、アフリカ・セネガルへ渡りトゥレ一家の元を訪れる。この模様はドキュメンタリー番組としてテレビでも放映された。
1986年
原の産休に伴い、サザンは最初の休業(yè)期間に入り、各メンバーのソロ活動(dòng)がはじまる。
4月、1年限定のソロプロジェクト「KUWATA BAND」結(jié)成、『BAN BAN BAN』でデビュー。桑田は音楽番組やライブで度々「新人です!」と強(qiáng)調(diào)していた。
12月24日、クリスマス・イヴの夜の生放送番組「メリー・クリスマス・ショー」 (日本テレビ系)をプロデュース。同番組で松任谷由実との共作『Kissin' Christmas (クリスマスだからじゃない)』を出演者一同で唄う。
1987年
10月6日、ソロデビューシングル『悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)』発売。以降、ソロでの活動(dòng)が続く。
ダリル・ホール&ジョン・オーツと「SHE'S A BIG TEASER」(シングル『いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)』収録)・『REALOVE』(ホール&オーツのアルバム『Oh Yeah!』収録)を共同レコーディング。
12月24日、前年に続き「メリー・クリスマス・ショー」プロデュース・出演。
1988年
3月16日、2ndシングル『いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)』発売。
4月21日、河內(nèi)淳一のアルバム『One Heart』に収録されている『Day After』と『戀に落ちた日 〜ANYDAY YOU LOVE ME〜』にコーラスで參加。
6月25日、『みんなのうた』で、サザンでの活動(dòng)を再開(kāi)させる。
7月9日、1stソロアルバム『Keisuke Kuwata』発売。
8月、RCサクセションの問(wèn)題作アルバム『COVERS』に參加。この時(shí)には桑竹居助なる変名でクレジットされている。この名義は1984年にサザンのファンクラブ會(huì)報(bào)『代官山通信』の署名でも使用されていた。
10月、山下達(dá)郎のアルバム『僕の中の少年』収録の『蒼氓』に原由子と共にコーラスで參加。
10月14日、ダリル・ホール&ジョン・オーツの東京ドームでのライブに飛び入り出演。
12月31日、『Keisuke Kuwata』で第30回日本レコード大賞・優(yōu)秀アルバム賞を受賞。
1989年
映畫(huà)監(jiān)督に初挑戦!悍R村ジェーン』クランク・イン。
1990年
4月、NHK-FMにてラジオ番組『ミュージック・スクエア』スタート;痍兹栅蜠Jを擔(dān)當(dāng)。民放での番組とは違い、下ネタなどの過(guò)激な発言は無(wú)かったものの、リスナーからのの投稿ハガキを読む『日本四方山話のコーナー』『句會(huì)のコーナー』、洋楽を1曲ピックアップし和訳を読み上げる『訳詞のコーナー』、テーマに添ってベスト3の楽曲を紹介する『My Count Down』などのコーナーが人気であった。また、1週おきにゲストミュージシャンを迎えてのトークも繰り広げた。この番組には、同じサザンの野沢秀行や渡辺美里・奧居香・高橋幸宏・杉真理・嘉門(mén)達(dá)夫・アン・ルイス・松尾和子、河內(nèi)淳一といったミュージシャンのほか、プロレスラーの前田日明も出演した。毎年年始には原由子も出演。1993年4月で擔(dān)當(dāng)を終了。
7月、『稲村ジェーン』クランク・アップ。映畫(huà)公開(kāi)までに、宣伝を兼ねて歌番組のほか、ワイドショー・ニュース・トーク番組などに積極的に出演。また、試寫(xiě)會(huì)を藤?zèng)g市の海岸で行い、桑田も會(huì)場(chǎng)に登場(chǎng)して『戀はお熱く』を唄う。
9月7日、『稲村ジェーン』公開(kāi)。
第32回日本レコード大賞のポップス・ロック部門(mén)において、ロック・ゴールド・ディスク賞、最優(yōu)秀ロック・ボーカル賞、作曲賞を受賞。大賞にノミネートした「真夏の果実」は、最終選考で「おどるポンポコリン」との一騎打ちに敗れる。
1991年
3月24日 - 26日、新宿のライブハウス「日清パワーステーション」で、洋楽ロックのスタンダードナンバーをアンプラグドで演奏する『アコースティック・レボリューション』を行う。メンバーは小倉(cāng)博和、小林武史、キース、など多彩な顔ぶれ。
6月、小林武史・小倉(cāng)博和・今野多久郎と共にゲリラライブを兼ねて中國(guó)・北京へと渡り、天安門(mén)広場(chǎng)にてボブ・ディランの「風(fēng)に吹かれて」、SUPER CHIMPANZEEのオリジナル曲「クリといつまでも」、北京の某ライブハウスにてビートルズの「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」などを演奏した。この模様は後に桑田が出演した筑紫哲也 NEWS23などで放送された。この旅行は翌年のサザンの北京ライブへと繋がる。
9月26日、SUPER CHIMPANZEE名義で『クリといつまでも』発売。
10月2日、3月の『アコースティック・レボリューション』を収録したライブビデオ『Acoustic Revolution Live at Nissin Power Station 1991.3.26』発売。
1992年
6月27日、企畫(huà)アルバム『フロム イエスタデイ』発売。KUWATA BAND時(shí)代のシングル4作が初CD化での収録となる。
1993年
10月6日、3rdシングル『真夜中のダンディー』を発売。サザン活動(dòng)中のソロ名義でのリリース。
12月1日、世界エイズデーであるこの日、多數(shù)のアーティストを集めた「AAA〜アクト・アゲインスト・エイズ」武道館公演を選曲・プロデュースし自らも出演。出演は泉谷しげる・大友康平・アン・ルイス・渡辺美里・福山雅治・原由子など、メリー・クリスマス・ショーにも匹敵する豪華な顔ぶれだった。バックバンドとして小林武史・小倉(cāng)博和・根岸孝旨・小田原豊・今野多久郎が集い、昭和歌謡曲を中心に多彩なアレンジで參加者がリレー形式で唄った。また、桑田・奧田民生・宮田和彌(當(dāng)時(shí)JUN SKY WALKER(S))・奧居香(當(dāng)時(shí)プリンセス・プリンセス)をメインボーカルに、このライブのために作られたチャリティーソング『光の世界』が唄われた。この後、様々なアーティストが集う形式はAAAで恒例化していくが、桑田がプロデュースしたのはこの1度きりである。昭和歌謡を多彩なアレンジで唄う形は、後々の活動(dòng)の原形となった。特にこのライブで初めて唄われた「ヨイトマケの唄」は、その後のソロライブや自身のテレビ番組などでも度々唄われることとなる。
1994年
サザン2度目の休業(yè)期間に入る。
8月24日、4thシングル『月』発売。CD店などの告知ポスターには「桑田佳祐、今年は一人で歌います」とのコピーの煽りがあった。後年中國(guó)香港で張學(xué)友によるカバー曲が発売され、大ヒット。
9月23日、2ndアルバム『孤獨(dú)の太陽(yáng)』発売。収録曲『すべての歌に懺悔しな!!』が、矢沢永吉と長(zhǎng)渕剛を揶揄しているとされ問(wèn)題となり、桑田が「あれは自分を含めた蕓能ロックミュージシャンを歌ったもの」と釈明し、2人に対して謝罪。矢沢は「まったく気にしてない。それより桑田君の方は大丈夫か?」と大人の対応をするが、長(zhǎng)渕は『views』誌上にて「俺は桑田佳祐を許さない!」などとコメント。ファン、マスコミを巻き込んでの一大論爭(zhēng)に発展。翌年に、長(zhǎng)渕が大麻の不法所持で逮捕されたことで、なし崩し的に沈靜化する。詳しくはすべての歌に懺悔しな!!による論爭(zhēng)を參照のこと。
9月 - 12月、初のソロ名義全國(guó)ツアー『さのさのさ』開(kāi)催。全國(guó)29都市35公演を敢行。サザンでは長(zhǎng)らく行われていなかった、ホール・市民會(huì)館などの小規(guī)模の會(huì)場(chǎng)でのライブを行い、ファンを喜ばせる。ツアー期間中の10月28日には母校である青山學(xué)院大學(xué)において「帰って來(lái)た青山のダンディー」と題し、學(xué)園祭ライブも行う。この日は通常のセットリストに加え、原・関口とともに、母校の思い出を綴った『Ya Ya (あの時(shí)代を忘れない)』を唄う。
10月31日、5thシングル『祭りのあと』発売。
12月1日、AAA武道館公演に出演者の1グループとしてサザンが登場(chǎng)し、オリジナル曲5曲を演奏。ソロ活動(dòng)中の同年において、久々にバンドとして、更に休養(yǎng)中の関口和之も復(fù)帰し、6人揃っての登場(chǎng)でファンを喜ばせた。また、桑田佳祐&Mr.Childrenとしても『奇跡の地球』を初披露。
12月21日、『さのさのさ』ツアーを収録したライブビデオ『すべての歌に懺悔しな!! -桑田佳祐 LIVE TOUR'94-』発売。ツアーが終了する前の発売であった。
12月31日、「月」で第36回日本レコード大賞・優(yōu)秀賞を受賞、『孤獨(dú)の太陽(yáng)』でアルバム大賞受賞。ソロツアー「さのさのさ」最終日、橫浜アリーナにおいて年越しカウントダウンライブ。
1995年
1月23日、共に編曲などで交流のあった小林武史との縁により、Mr.Childrenと桑田佳祐&Mr.Children名義で『奇跡の地球(ほし)』をチャリティーシングルとしてリリース。前年AAAで披露されていただけに、ファン待望の作品化となった。
4月、「桑田佳祐のキヤノンFMワンダーランド 〜やさしい夜遊び〜」(現(xiàn)・TSUNEISHI GROUP SATURDAY NIGHT CRUISE 桑田佳祐のやさしい夜遊び、TOKYO FMなどJFN全國(guó)ネット)スタート。自身がパーソナリティを務(wù)め、現(xiàn)在も続く長(zhǎng)壽番組になっている。
4月 - 5月、Mr.Childrenと共演のライブツアー『LIVE UFO '95桑田佳祐&Mr.Children“Acoustic Revolution with Orchestra”奇跡の地球(ほし)』開(kāi)催!浩孥Eの地球』のほかにビートルズなどの洋楽も披露した。
12月1日、Act Against AIDS'95をタイのバンコクにて開(kāi)催。小林武史や小倉(cāng)博和らとともに「真夏の果実」「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」のほか、ビートルズやジョン・レノンのナンバーなど、計(jì)7曲を歌う。
12月31日、橫浜アリーナで行われた岸谷五朗主催のアミューズのイベント『THE VARIETY III 異業(yè)種共演 大晦日の宴 〜FOR AAA』に出演。サザンとしての年越しライブに替わる出演で、桑田はカウントダウンの直前に登場(chǎng)。爆風(fēng)スランプの演奏で「勝手にシンドバッド」を唄い、1996年を迎えた。また、出演者の石橋貴明・唐沢壽明・岸谷五朗とともに「ゴロー&センズリッターズ」として、桑田の書(shū)き下ろしの曲『長(zhǎng)嶋は教祖なんかと違います』を唄い、唐沢は本業(yè)とは違うコミカルな一面を見(jiàn)せた。カウントダウンの瞬間は、殘念ながら年が明けるよりも數(shù)十秒も早く曲が終わってしまい、年が明けるまで出演者がMCのみで會(huì)場(chǎng)を煽ったが、かなり間の悪いものになってしまった。
1996年
4月、斎藤誠(chéng)のシングル『今 僕を泣かせて』にコーラスとスライドギターのソロでゲスト參加。
12月1日 - 12月3日、桑田にとって初のAAA単獨(dú)ライブ『Act Against AIDS '96 夷撫悶汰レイト・ショー 〜長(zhǎng)距離歌手の孤獨(dú) in Jazz Cafe〜』開(kāi)催。このライブのみ夷撫悶汰(いヴもんた)の変名を用いて1940 - 60年代のスタンダード・ジャズを全27曲、ミュージカル的な演出を交えて演奏。
1997年
3月5日、昨年のAAAライブを収録したライブビデオ『夷撫悶汰レイト・ショー〜長(zhǎng)距離歌手の孤獨(dú) in Jazz Cafe〜』発売。
9月、サザンが影響を受けたバンドであるリトル・フィートのギタリスト、ローウェル・ジョージのトリビュート・アルバム『ROCK AND ROLL DOCTOR』のレコーディングのため渡米!溉毡救摔钎辚去・フィートのカバーを任せられるのはこの人だけ」と、唯一の日本人ボーカリストとして抜擢され「LONG DISTANCE LOVE」を歌った。10月には、同アルバムが日本でもリリース。
10月、桑田がAAAで『サルビアの花』などをカバーしたこともある早川義夫に、書(shū)き下ろしの新曲『アメンボの唄』を提供。作詞曲のほか、ギター・コーラスでレコーディングに參加。テレビ朝日系バラエティ番組『人気者で行こう!』エンディングテーマに起用され、早川とともに桑田も番組のエンディングに出演していた。
11月28日 - 12月1日、『Act Against AIDS '97 桑田佳祐 歌謡サスペンス劇場(chǎng)』開(kāi)催。昭和の歌謡曲を全30曲披露し、長(zhǎng)らく放送禁止曲とされてきた岡林信康の『チューリップのアップリケ』も熱唱。その模様は深夜とはいえ,テレビで放映された。
1998年
11月30日 - 12月2日、『Act Against AIDS '98 桑田佳祐 オールリクエストショー』開(kāi)催。桑田に歌ってほしい曲のリクエストをファンから募り、全30曲のリクエスト曲を披露。このライブでの桑田はパジャマにスリッパという衣裝だった。
1999年
11月30日 - 12月2日、『Act Against AIDS '99 桑田佳祐 エリック・クラプトソ 橫浜公演』開(kāi)催。クリーム、ブラインド・フェイスの曲やエリック・クラプトンソロの曲など全26曲を披露。途中原由子もアコースティックギター・コーラスで參加し、12月1日公演のアンコールには関口和之も飛び入り參加した。
2000年
1月29日 - 2月5日、FC會(huì)員限定ライブ『伊豆だらけのローラ』開(kāi)催。
5月、山下久美子のデビュー20周年記念セルフカバーアルバム「THE HEARTS」に収録される『バスルームから愛(ài)を込めて』にコーラスで參加。アルバムは6月25日に発売。歌詞カードには山下と桑田が一緒に寫(xiě)ったポラロイド寫(xiě)真も載っている。
8月、自身の故郷・神奈川県茅ヶ崎市でサザンとして凱旋コンサート『茅ヶ崎ライブ』を行い話題を呼ぶ。
10月、「桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜」(フジテレビ系)放送開(kāi)始。
11月30日 - 12月2日、『Act Against AIDS 2000 桑田佳祐が選ぶ20世紀(jì)ベストソング』開(kāi)催!21世紀(jì)に殘したい曲」をテーマに、桑田が選曲した全28曲を熱唱した。
12月31日、サザンの大ヒット曲『TSUNAMI』で第42回日本レコード大賞を受賞!袱浃盲、ひばりさんの背中が見(jiàn)えました」とコメント。
2001年
サザン2度目の休業(yè)期間に入り、各メンバーソロ活動(dòng)を開(kāi)始。
7月4日、6thソロシングル『波乗りジョニー』発売。発売に合わせ、地方都市でFMラジオ公開(kāi)生放送と、ライブ『古賀紅太 No Reason! ライブハウスツアー』とを同時(shí)進(jìn)行の形で行う。ラジオ放送は各地で數(shù)千人もの観客を集め、好評(píng)を得た。ライブはサザンとしての全國(guó)ツアーに替わる企畫(huà)で、佐賀・青森・奈良など、それまでツアーで行くことが少なかった土地でも行われ、地方ファンを喜ばせた。
8月7日、ラジオ番組內(nèi)で、大森隆志のサザン脫退を発表!弗抓恧摔胜霘荬蠠o(wú)かったメンバーをまとめ、プロの世界に導(dǎo)いたのは大森。彼がいなければ自分達(dá)は世に出る事ことはなかった」と語(yǔ)る。
10月24日、7thシングル『白い戀人達(dá)』発売。桑田ソロ名義のシングル最高売上を記録。
11月30日 - 12月2日、『Act Against AIDS 2001 桑田佳祐 plays "The Beatles" クワガタムシ対カブトムシ』開(kāi)催。ビートルズの曲を全38曲熱唱。ライブ初日にはビートルズのギタリスト・ジョージ・ハリスン逝去の訃報(bào)が報(bào)じられ、ステージで黙禱を捧げた。
12月6日、やまだひさしのラジアンリミテッドの企畫(huà)でGLAYと競(jìng)演。この模様は「桑田佳祐 meets GLAY スーパーFM」としてOAされた。最後はジョン・レノンの『Happy Xmas (War Is Over)』をGLAY、番組スタッフを交えて全員でセッション。
12月22日 - 12月24日、札幌市の月寒グリーンドームで『桑田佳祐 Xmas LIVE in 札幌』開(kāi)催。當(dāng)初は札幌ドームを借りるつもりでいたが、計(jì)畫(huà)したときにはすでに埋まっており、ライブのMCで月寒ドームになってしまったことをぼやいていた。ライブではサザン・ソロ・KUWATA BANDの楽曲のほか、『サンタが街にやってくる』『赤鼻のトナカイ』などのクリスマスソングも唄われた。また、24日のライブ終了後にはフジテレビ系『HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP』のクリスマス特番の生中継も入り、會(huì)場(chǎng)の外で一面の雪とライブを見(jiàn)ていたファンに囲まれて『白い戀人達(dá)』をピアノ弾き語(yǔ)りで唄った。
12月31日、「白い戀人達(dá)」が第43回日本レコード大賞金賞受賞。最有力候補(bǔ)だったが、授賞式を欠席。大賞は浜崎あゆみに。
2002年
『波乗りジョニー』『白い戀人達(dá)』の2作で、第16回日本ゴールドディスク大賞 ソング・オブ・ザ・イヤー受賞。
6月26日、8thシングル『東京』発売。ファンクラブ誌上にて「石原慎太郎に物申すみたいな気持ちで作った」とコメント。
8月10日、茨城県ひたちなか市で行なわれた邦楽ロックの音楽祭・ROCK IN JAPAN FESTIVALに參戦。2日目のトリを務(wù)める。未発表の新曲『BLUE MONDAY』『東京ジプシー・ローズ』(翌月発売のアルバムに収録)他、全14曲を熱唱。
HOUND DOGのSHIBUYA-AXでのライブに飛び入り出演。大友康平とサザン初期の楽曲、『熱い胸さわぎ』収録の『戀はお熱く』を歌う。
9月22日、スペースシャワーTVの日比谷野外音楽堂でのライブイベント『SWEET LOVE SHOWER』にトップバッターで出演。當(dāng)日までシークレット扱いで一般には一切知らされておらず、観客を驚かせた。桑田はプロレスの覆面を被って登場(chǎng)し、全5曲を歌唱。
9月26日、3rdアルバム『ROCK AND ROLL HERO』発売。
11月 - 12月、コンサートツアー『けいすけさん、色々と大変ねぇ。』開(kāi)催。ソロアーティストとして初めて全國(guó)5大ドームツアーを開(kāi)催。
11月27日、初のソロベストアルバム『TOP OF THE POPS』発売。ソロ名義で1980年代、1990年代、2000年代と3世代に渡ってオリコンアルバムチャート1位を達(dá)成。3世代以上での1位は男性ソロでは長(zhǎng)渕剛(1970年代を含め4世代)、井上陽(yáng)水(3世代)に次ぐ3人目の快挙。
12月11日、ビデオクリップ集『桑田佳祐ビデオクリップス2001〜2002 D.V.D. WONDER WEAR』発売。
2003年
『東京』で第17回日本ゴールドディスク大賞 ソング・オブ・ザ・イヤー受賞、『ROCK AND ROLL HERO』と『TOP OF THE POPS』の2作がロック & ポップ・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞。
2月、『東京』が「SPACE SHOWER Music Video Awards 03」BEST VIDEO OF THE YEARを受賞。
3月26日、『けいすけさん、色々と大変ねぇ!护騾уhしたライブビデオ『桑田佳祐ライブビデオ「けいすけさん、ビデオも色々と大変ねぇ!埂话k売。
7月23日、『涙の海で抱かれたい 〜SEA OF LOVE〜』をリリースし、サザンでの活動(dòng)を再開(kāi)。
11月、桑田の息子が通う高校の學(xué)園祭でシークレットライブを行い、『勝手にシンドバッド』『涙の海で抱かれたい』などを歌った。この模様は女性週刊誌で報(bào)じられた。バンドメンバーは桑田の他に原や小倉(cāng)博和・三沢またろう。4人とも學(xué)校の制服を衣裝としていた。
12月2日 - 12月4日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2003 栄光のDISCO & SOUL』開(kāi)催。ディスコ&ソウルをテーマに1960 - 70年代のディスコナンバー全34曲を披露。原由子・野沢秀行もゲスト出演した。
2004年
11月30日 - 12月2日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2004「THE GOLDEN AGE OF BRITISH ROCK 〜愛(ài)と青春の英國(guó)ロック〜」』開(kāi)催。1960 - 70年代を中心とした“英國(guó)ロック”をテーマに全31曲を熱唱。
2006年
7月17日、ゆかりのある小林武史、Mr.Childrenの桜井和壽らが主催する「ap bank fes'06」にソロとして出演。最終日となるこの日は、桜井と1995年に発売された『奇跡の地球』を11年ぶりにセッションし、話題となった。ソロでの出演であったが、サザン名義での楽曲『いとしのエリー』『真夏の果実』も披露した。
8月26・27日の2日間、桑田がサザンを中心としてアミューズ所屬のアーティストに呼びかけ、初の自身主催となる野外フェスティバル「THE 夢(mèng)人島 Fes.2006」を開(kāi)催。アミューズ外からもGLAY、Mr.Children、Dragon Ash、さらには加山雄三など、桑田とゆかりのあるアーティストがスペシャルゲストとして出演。
11月30日 - 12月2日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2006「星條旗よ永遠(yuǎn)なれ!? 〜私のアメリカン・ヒーローズ」』開(kāi)催。桑田が影響を受けた1960 - 70年代のアメリカンミュージック37曲を熱唱した。
2007年
約5年ぶりにソロ活動(dòng)を再開(kāi)。
4月6日、妻・原由子と銀婚式を迎える。山下達(dá)郎・竹內(nèi)まりや夫妻と合同で行われた
5月16日、9thシングル『明日晴れるかな』発売。
8月22日、10thシングル『風(fēng)の詩(shī)を聴かせて』発売。
12月5日、11thシングル『ダーリン』発売。
11月 - 12月、2002年の『けいすけさん、色々と大変ねぇ!灰詠(lái)、5年ぶりとなるソロコンサートツアー『呼び捨てでも構(gòu)いません!!「よっ、桑田佳祐」SHOW』開(kāi)催。6都市14公演を敢行。
2008年
3月12日、ツアー『呼び捨てでも構(gòu)いません!!「よっ、桑田佳祐」SHOW』の12月31日のファイナル公演の模様を収めたライブDVDと、2007年発表のソロ楽曲9曲に、新曲1曲と原由子のソロ曲「大好き!ハッピーエンド」を加えたCDのセット『桑田さんのお仕事 07/08 〜魅惑のAVマリアージュ〜』を発売。
3月23日、『全國(guó)民放 FM53局 & KDDI presents 桑田佳祐 アコースティックライブ in 石垣島』が開(kāi)催され、全國(guó)の民放FM局53社に同時(shí)ネットで生中継された。
5月19日、同日付でサザンオールスターズとしてのバンド活動(dòng)再開(kāi)を発表。同時(shí)に、翌年以降バンド活動(dòng)の無(wú)期限休止を発表。第4期ソロ活動(dòng)はこの年の3月まででいったん終了した。
11月30日 - 12月2日、『桑田佳祐 Act Against AIDS 2008「昭和八十三年度! ひとり紅白歌合戦」』を開(kāi)催予定。

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