広瀬 香美(ひろせ こうみ、1966年4月12日 - )は、日本のシンガーソングライターである。本名は米光 麻美(よねみつ まみ)。JVCエンタテインメント所屬、ビクターエンタテインメントと契約。福岡県太宰府市出身。蕓名の「香美」は「call me」をもじって自ら命名。尊敬する音楽家はデイヴィッド・フォスター。元夫は俳優(yōu)の大沢たかお。血液型O型。
小簡介
4歳からピアノ、そして5歳から作曲を習(xí)い始める。福岡女學(xué)院中學(xué)校・高等學(xué)校(音楽科)を経て、國立音楽大學(xué)音楽學(xué)部作曲學(xué)科卒業(yè)。
幼少期から和聲學(xué)などクラシックの作曲法を?qū)Wぶ。第一號作品を作曲したのは6歳で、タイトルは『パパとママ』である。(この曲は自身の初めてのコンサートツアーで弾き語りによって披露された。) 初めて買ったレコードはバッハの『マタイ受難曲』。この作品には作曲法が詰まっていて作曲のルールを身につけるための勉強(qiáng)になるからという先生からの教えで、夕食中などにも聴き続けていた。
小中學(xué)生の頃が自身の作曲家人生のピークだったと本人が語っている。[1]日夜、夢の中でもひたすらメロディを考え頭の中に浮かべ続けていたという。新しいメロディが浮ぶとその場ですぐ紙に五線譜を書いてメモを取っていた。広瀬香美の作品として発表している楽曲の中にこの當(dāng)時に作成したメロディを使っていることも多い。當(dāng)人の楽曲になぜメロディの起伏が激しいものが多いかというと、元々人が歌うためのものではなくピアノやバイオリンなど楽器のために書いていた曲だったからである。
中學(xué)、高校生時代にはよく通學(xué)中に作曲していたという。『ロマンスの神様』のサビ以外の部分は井尻駅前バス停で、『愛があれば大丈夫』のサビは六ツ角歩道橋の上で作られた。[2]
大學(xué)時代にはクラシックの規(guī)則からはみ出しがちな曲を書いていた。そのため15人ほどしかいない學(xué)科內(nèi)で一番成績が悪かった。大學(xué)1年の時に先生に呼び出され「將來何になりたいのか」と聞かれ、「作曲家です」と答えると、「無理です」といわれる。このことがきっかけとなり、高校時代の友人を訪ねに遊びに行くためにロサンゼルスに旅立った。そこでマイケル・ジャクソンやマドンナ (歌手)のライブを見て感激し、ポップ・ミュージックに目覚める。自分が書き溜めてきたクラシックの楽曲を編曲してマイケルが歌ったら売れるのではと考え、マイケル・ジャクソンに曲を提供しようという夢が生まれた。[1]なお本人は未だこの夢を持ち続けている。
ポップ・ミュージックの勉強(qiáng)をしながらLAに滯在していた時に、マイケル・ジャクソンのヴォイス・トレーナーであるセス・リグス氏のオーディションを受ける。そこでマイケルに少しでも近づくため、作曲やプロデュースの勉強(qiáng)をさせてくれないかと直訴した。結(jié)果、歌ものの曲を書きたいのならボーカルトレーニングも受けておくことを勧められ、東洋人で初めての合格者となり約3年間師事する。トレーニング修了後、ロサンゼルス在住の日本人ギタリスト平野T.J.ヨーイチ氏と出會い、デビューに向けてデモテープを制作した。
帰國後の1992年7月、アルバム『Bingo!』でビクター音楽産業(yè)(現(xiàn)・ビクターエンタテインメント)からデビュー、同年12月には、1stシングル『愛があれば大丈夫』をリリースした。翌年1993年のアルペンCMソングになった3rdシングル『ロマンスの神様』はオリコンチャートで170萬枚を越える大ヒットとなりブレイク。それ以降、『幸せをつかみたい』『ゲレンデがとけるほど戀したい』『promise』等、數(shù)々のヒット曲を生み出す。
冬にヒットする曲が多いことから『冬の女王』とも呼ばれているが、広瀬本人にはそう言った自覚は全くないらしい!袱胜激胜、(ヒットした曲が多い)アルペンのCMソング等は実は夏に書いているから」と語った。[3]ちなみに夏の曲も書いており、シングル『夏だモン』や広末涼子に提供した『summer sunset』などがある。現(xiàn)在は「冬の女王」という呼稱にさほど抵抗はないように見える。ただ、これだけ冬の歌を多く書きながら、クリスマスにライブを行ったことがあるのは、2005年の広島郵便貯金ホールで行われた招待制の無料ライブと、2007年のコンサートツアー「香美別邸」恵比壽ガーデンホール公演の2回だけである。
ハイトーンで音域が広く、聲量のある歌唱力で、ソングライターとしても評価が高い。その歌唱力から、普通の聲量・音域の人がカラオケで歌うのは非常に大変だが、本人も、酒を飲んだりしてコンディションが悪い時には、自分の歌が歌えなくなるとの事である。また広瀬?zhàn)陨恧獯螭违楗焙盲扦ⅳ辍?007年の全國ツアー「GIFT+♪幸せは冬にやってくる♪」ではDAM(第一興商)との連動企畫を?qū)g施。ツアー最終日の3月24日渋谷C.C.Lemonホール(渋谷公會堂)公演にて、課題曲「サプライズ未來」(アルバム「GIFT+」収録曲)のランキングバトルで全國1位を獲得した人と「ロマンスの神様」で採點(diǎn)対決を行った。結(jié)果は広瀬の勝利で、本人は非常に喜び満足していた。
1999年3月、映畫『ゲレンデがとけるほど戀したい!护颏盲堡酥旰悉盲抠絻(yōu)の大沢たかおと結(jié)婚したが、2006年11月28日に離婚が報道され、同日公式サイト上に「広瀬香美からのお知らせ」として「結(jié)婚生活に終止符を打つ事にいたしました」と離婚に関してのコメントを掲載した。
2008年10月28日、公式サイト上に「皆様へのご報告」として「私、広瀬香美は2008年10月12日に結(jié)婚いたしました」と、一般企業(yè)に勤める米國人男性との再婚を発表した。再婚後も音楽活動は継続する。
現(xiàn)在は精力的に音楽活動を展開しており、ドラマ・映畫・ミュージカルの音楽監(jiān)督、多くのアーティストへの作品提供及びプロデュース等を手がける。またヴォイストレーナーとしても、1999年10月に設(shè)立し自らが校長を務(wù)めるヴォーカルスクール「Do Dream」において、生徒の指導(dǎo)にあたっている。また近年はライブ活動も積極的で、例えば2006年2月に東京オペラシティコンサートホール・タケミツメモリアルで行われた「広瀬香美 presents HAPPY VALENTINE CONCERT with 東京フィルハーモニー交響楽団」において自らオーケストラの演奏指揮を執(zhí)りながら歌う、などといったユニークな試みも隨所に見られる。