砂原 良徳(すなはら よしのり、1969年9月13日 - )は、北海道札幌市豊平區(qū)出身の日本のミュージシャン。テクノバンド電気グルーヴの元メンバー(1991年~1999年在籍)。電気グルーヴ加入當時は良徳 砂原(よしとく すなはら)と名乗っていた。愛稱はまりん、砂ボン。中學時代の部活はレタリング部。
小簡介
余談だが砂原のYMO、クラフトワークに関する造詣は並々ならぬものがあり、エピソードとしては、
YMOに関して
1993年3月フジテレビ系で深夜に放送されたクイズ番組『カルトQ』のYMOの回に解答者として、演出上「一般視聴者に混じり予選から」參加したという觸れ込みで、オンエアのある本戦から出場。予選を勝ち抜いた真顔の一般參加者を尻目に見事に優(yōu)勝!竃MOカルトキング」に輝く。
地元(北海道)にいた頃は坂本龍一が札幌にライブやロケなどで來たら必ず追っかけをしていた。
素人時代に高橋幸宏主宰のボウリング大會にちゃっかり參加する。
中學時代よりYMOのコピーバンドを結(jié)成!窶TO(モダン・タイムズ・オーケストラ)」という名前だった。その後もディーヴォのコピーバンド「ティーポ」なども結(jié)成していた。
ラジオでゲスト出演した細野晴臣の吸っているタバコの銘柄(チェリー)も知っていて、細野からも「(本人よりも自分たちのことを知っていて)気持ち悪いなぁ~」と言われる。
中學・高校と、髪型はもちろんテクノカット。ナムコの社員証に使われた寫真もテクノカットだった。
1991年にリリースされたライヴ盤『フェイカー・ホリック』には資料提供者としてライナーノーツに名前が載っている。電気グルーヴとして「コズミック・サーフィン」をカヴァーするきっかけになったのもこのライヴ盤のリリースであり、カヴァーするにあたり曲目を選ぶ際は、石野、砂原ともに同時に「コズミック・サーフィン」の名が挙がったという。こうしてリリースされたシングル『MUD EBIS/COSMIC SURFIN'』のプログラミングが砂原のメジャー初仕事となった。直後に発売されたアルバム『UFO』に関しては石野と瀧の2人體制でほぼ既に作業(yè)は終了していた為、ボーナストラックとして収録された「ビーチだよ!電気GROOVE」のみを擔當している。
クラフトワークに関して
ヨーロッパに向った際、クラフトワークのスタジオ(Kling Klang Studio)前に出待ちし、メンバーが中から出てくるのを見計らって、自分の東京クラフトワーク名義の作品が収録されたCDを手渡した事がある。
東京クラフトワークの「THE TELEPHONE CALL」は本家クラフトワークの80年代の楽曲を、90年代にリリースされたセルフカヴァー盤「THE MIX」のフォーマットに忠実にアップデートしたもので、砂原のクラフトワーク愛ここに極まれりといった內(nèi)容である(この曲が収録されたコンピレーションアルバム「Dance2Noise005」には、石野卓球のNINJAHEAD名義の作品も同時収録されている)。
などが有名である。
もともと幼い頃から「未來」や「ロボット」のようなテクノポップやニューウェーブ、レトロフューチャー的な世界観のモノに惹かれる傾向にあり、いわゆるステレオタイプな「ロック的なもの」に対してはある種の苦手意識を持つと語る。だが、それでいて意外にも蝶野正洋の大ファンを公言している。
電気グルーヴ加入直前の1991年、サポートで參加した平?jīng)g進の「ヴァーチュアル・ラビットツアー」の東京公演において元P-MODELの田中靖美が楽屋訪問し、『失神するかと思った』レベルで感激。(平?jīng)g進ファンクラブ會報より抜粋)
また、雑誌の企畫では冨田勲と対談し、緊張気味ながらもミーハーぶりを発揮、冨田もその姿勢に感激し、自宅に招待した。
デビュー當時はユニコーンに在籍していた奧田民生に似ていると言われる事が多かった。
好きな映畫は、「銀河鉄道999」
以前、瀧が行ったキャバクラにいた女の子が、砂原の同級生で、しかもその子は砂原の事が好きだったらしい。
砂原が経験した一番の変態(tài)プレイはバック。
大事件
YMOやクラフトワークなどの、テクノポップ・ニューウェーブに影響を受け、中學生でシンセサイザーを始める。MODERN TIMES ORCHESTRA、ダッチ楽団、AUTISMなどのアマチュアバンドで活動を開始する。北海高等學校卒業(yè)後に札幌のナムコに就職したが後に上京、AUTISMにRe-Reというバンドで活動していた末岡二郎と松沢重信を加え、O-TISMを結(jié)成。この頃、電気グルーヴの前身「人生」に出會い、後にO-TISMとして電気グルーヴと対バン。上京後はCSK総合研究所の関連會社であったハイパーメディアでサラリーマンを続けつつ(メガドライブ版のギャラクシーフォース[CSK発売]の音楽を擔當)も平?jīng)g進、加藤賢崇などのサポートメンバーを経て、1991年春、かねてから交流のあった石野卓球に渡したデモテープがきっかけとなり、CMJK脫退後の電気グルーヴのメンバーとして同年夏に加入。ほどなくしてハイパーメディアを退社し音楽に専念する。その後8年間の活動を経たのち、フランスで開催された音楽ビジネスの國際見本市“MIDEM”でのライヴを最後に1999年4月2日付で正式に脫退。 別名義でのリリースやリミックス作品提供など単発的かつ課外活動的なソロワークは多數(shù)あったものの、本格的な本人名義のソロ活動の開始は1995年から。それまではアナログシンセサイザーを多數(shù)駆使し、クラフトワークのアルバム『The Mix』の影響が色濃い「往年のテクノポップの要素を取り入れたダンスミュージック以降のテクノ」とも評される作風が特徴だったが、ソロデビュー作『CROSSOVER』ではアナログシンセを敢えて一切封印。サンプリング主體によるモンド・ラウンジ路線の作品を発表し大きな話題を集めた。その傾向は電気グルーヴ本體の活動にも影響を與えている。だが、バンド脫退後に発表したアルバム『LOVEBEAT』ではよりシンプルなエレクトロニック・サウンドに進化した。國內(nèi)のみならずドイツのBungalowレーベルからは全アルバムがリリースされている。その一方、SUPERCARやACOなど他アーティストのプロデュース、DJなどでも活躍中。
現(xiàn)在はプライベートスタジオ「YS STUDIO」(YSST)を設(shè)け、活動の拠點としている。
電気グルーヴのメンバーとして作品への參加は、最大のヒット曲『Shangri-La』を含む『A(エース)』までとなるが、2001年に発売された電気のアルバム『The Last Supper』や、2005年に発売された電気グルーヴ×スチャダラパーのアルバム『電気グルーヴとかスチャダラパー』では砂原もサポートとして參加しており、脫退したとはいえ電気との交流も最近盛んである。実質(zhì)的には、ライヴツアーを音源化した『イルボン2000』以外のアルバムには何らかのかたちで関わっているという事になる(しかしライヴツアー當時、舞臺セットの一部には、かつて「B-PASS」の表紙を飾った砂原の顔寫真が拡大されて使用されていた)。ピエール瀧のバンド「ピエール瀧とベートーベン」にもシンセサイザー・ベートーベンの名で參加しており、この活動中に砂原が発した「それはバッハ!」は、1991年クラブチッタ川崎の楽屋で喧嘩の仲裁に入ったときに発した「ケラさん、逃げて!」と並んで名言として語り継がれている。
上記の通り、電気グルーヴに加入した當初の名義は「良徳砂原(よしとく すなはら)」表記を使用していたが、1994年の電気のアルバム『DRAGON』以降は「砂原良徳」表記になっている。これに関しては特に改名の意向が示されたわけでもなく、レコード會社との契約上は當初より「砂原良徳」であった。1995年のソロデビューの際、既に定著しているまりん名義でのリリースも多少考えられたというが、それもどうかということで、結(jié)局はストレートに本名に落ち著いたという。こうしてリリースされた『CROSSOVER』がテクノ以外の多方面でも広く話題を集めた結(jié)果か、単に人気バンドメンバーのソロ作という枠を超え、本名での知名度も広まっていく事となった。
當初「良徳砂原」とした理由に関しては人形の吉徳大光からきているなど複數(shù)の説がある。當初はYOUやROLLYなどから一見して読み方が分らないといった指摘があった。「良徳」の名は母親の良子の「良」と母の友人から「徳」の字をとってつけられたという。
愛稱の「まりん」は電気加入當初にあみだくじで決められた。由來は楳図かずおの漫畫『わたしは真悟』に登場するキャラクターから。一時期は「まりんジェット吉」、「地獄サンダー」、「砂原警察」、「女陰」などと短期間に數(shù)度の改名を石野と瀧に強要されたが、最終的には(石野と瀧が飽きたため)元に戻っている。また、加入當初は電気の「寶島」での連載『脳が溶ける奇病』の寫真マンガでは石野と瀧が沖縄で出會ったロボットという設(shè)定が付け加えられていた。電気の単行本『俺のカラダの筋肉はどれをとっても機械だぜ』の內(nèi)容の一部にもその名殘がみられる。
電子楽器のみに留まらず、筋金入りのメカ好きでゲームマニアとしても有名。かつてはアーケードゲーム用の基板なども収集していた。ハマったら徹底的に追求しないと気が済まず、その結(jié)果健康管理を怠ってしまうことも。
ソロや電気グルーヴ以外にも多數(shù)のユニットに參加しており、佐藤大との"ステレオタイプ"、元オーティズム(AUTISM/O-TISM)の田中純との"FROM TIME TO TIME"、常盤響との"MIDNIGHT BOWLERS"、"yoshinori sunahara & mars art lab"、石野卓球との"MANGAHEAD"、EL-MALO(柚木隆一郎、會田茂一)との"EL-MARIN"などがある。一方、個人の別名義での活動は"東京クラフトワーク"、"2600MEN DRUMMERS"などがある。
リミキサーとしてはYMO、テイ・トウワ、リップスライム、福富幸宏、高橋幸宏、ピチカートファイヴ、コーネリアス、小林亜星、テレックス、森若香織、李博士、矢野顕子、Coldcut、DE DE MOUSEなど多數(shù)の作品を手掛ける。
ビデオゲームのコンポーザーとしては、サラリーマン(ハイパーメディア在籍)時代に、メガドライブ版ギャラクシーフォース(ゲーム音楽を編曲)・FM-TOWNS版ギャラクシーフォース(効果音)を擔當している。また、実際に日の目は見なかったが、電気グルーヴ在籍中にもゲームフリーク(田尻智)製作のスーパーファミコン用ソフト『ジェリーボーイ2』の音楽も手がけていた。
表立った共演などは特に無いが、小山田圭吾とは1990年代後半より親交が深く、一緒にパジャマパーティを催すほどの仲であるという。