HIRO(ヒロ、本名:五十嵐広行(いがらし ひろゆき)、神奈川県橫浜市(生まれは広島)、1969年6月1日 - 血液型:AB、身長(zhǎng)174cm、體重63kg)
パフォーマー兼リーダーで、所屬事務(wù)所LDHの社長(zhǎng)。所屬アーティストのマネジメントからダンススクール、アパレルブランドの運(yùn)営まで、ビジネスの舵取りを擔(dān)う。
元ZOOのメンバー。15歳にしてディスコに足を踏み入れ、そこで初めて見(jiàn)た黒人のダンスに魅せられ、ダンスの道へと導(dǎo)かれることとなる。橫浜市立金沢高等學(xué)校出身。現(xiàn)AVEX社長(zhǎng)の松浦勝人は高校の先輩にあたり、松浦が當(dāng)時(shí)、店長(zhǎng)をしていた貸しレコード屋にHIROが足を運(yùn)んではレコードを借り、高校の文化祭の時(shí)にDJを頼んでやってもらっていたという。高校卒業(yè)後、1989年にテレビ番組「DADA」のダンスコンテストでLMDに參加した。結(jié)果、HIROは準(zhǔn)優(yōu)勝を飾りそのコンテストを観ていたスカウトに聲を掛けられ、1990年にLMD改めZOOとしてシングル「Careless Dance」でデビュー。ZOOは一気にスターダムへと駆け上がった。しかし解散後の1996年に女性ボーカルとHIROを含めた二人のダンサーからなるユニット、「LUV DELUXE」を結(jié)成するも間もなく解散。1995、6年にはDREAMS COME TRUEのコンサートツアーにバックダンサーとして參加していた。また、ニュー・エディションのベル・ビヴ・デヴォーやボビー・ブラウンにダンスを認(rèn)められ踴った事もある。吉田美和の「お客さんは自分のお金でライブに來(lái)てくれるのだから心を込めて一生懸命やろう」という言葉がHIROに自身の慢心を悟らせるキッカケになったという。そこで自身が変わっていく決心を固めたという。そんな中で現(xiàn)パフォーマーたちと出會(huì)い、貧乏でも一生懸命ダンスに打ち込み、自分に付いて來(lái)てくれる彼らのためにも今の狀況を変えたいと思い、「もう一度ダンスで勝負(fù)がしたい」と頭を下げ、何度も頼み込んだ結(jié)果、J Soul Brothersとしてデビューするチャンスを松浦勝人から與えられ、アルバイトとして、AVEXからデビューする前の卵たちのレッスンも任された。HIRO自身、「松浦さんは人生の恩人。松浦さんがいなかったらJSBもEXILEもなかった」と話している。
會(huì)社を設(shè)立するに至って、「ZOOの時(shí)にはいくつもの可能性があった。でも俺はそれを活かすことすらできなかった。本當(dāng)に慘めで悔しい思いもしたし、自分自身の力でもう一度武道館に立ちたい。Your eyes onlyでEXILEとして、初めてテレビに出た時(shí)、テレビの出演がこんなに嬉しいことだと思ったのは初めてだった。今こそ自分たちの夢(mèng)を一つ一つ葉えていくチャンスが來(lái)た。今こそ會(huì)社を作ろう」と決心し、メンバー6人で50萬(wàn)ずつを出資し、青山のビルの地下に有限會(huì)社エグザイルエンターテイメントを設(shè)立。HIROに會(huì)社を作るよう提言したのも松浦である。
同事務(wù)所の佐田真由美と交際していたが、2007年3月に破局していたことが明らかとなった。
2005年の1月25日に自身が書(shū)いた「Bボーイサラリーマン」を出版。7月、自身の経歴を綴ったDVDを発売した(『HIRO ZOO→JSB→EXILE』)。
「THE COVER MAGAZINE」を連載中。
以前はヘビースモーカーだったが、J Soul Brothers時(shí)代にダンスの練習(xí)中に「煙草止めないと死ぬかも」と感じ、止めたという。
「いつ休んでるんだろうと思う位、俺たちのことと、EXILEのことを考えてくれている。寢ている時(shí)も考えているんじゃないかっていう位。もうデビューしてからロクに休みを取ってないだろう。感謝してもし切れない位」と言わしめる程の仕事人でもある。また、メンバーに対して怒る人物ではないという!概盲郡盲、自分で感じてみないと分からないこともある。だから俺はよほどのことがない限りメンバーに口出ししない」というポリシーを貫いている。脫退したSHUNも「HIROさんにはなぜか甘えられる。あれだけの器のでかい人はそうそういるもんじゃない」と話していた。
SHUN脫退後はATSUSHI1人で行くかどうか悩みに悩んだと言うが、最終的にはHIROの「一般からボーカルを募集しよう」という一言でオーディションを主催することになった。その理由としてHIROは「夢(mèng)を持った人たちにいいきっかけを作れる場(chǎng)所を提供できたらいいし、ミリオンアーティストがオーディションやるっていうのもEXILEのエンターテイメントとしてのインパクトも強(qiáng)いと思った」と話している。
MATSU(マツ、本名:松本利夫(まつもと としお)、神奈川県川崎市、1975年5月27日 - 血液型:O、身長(zhǎng)170cm、體重58kg)
HIROに影響され、ダンスは16歳のときに出會(huì)い、18歳のとき本格的に始めた。1996年、ダンスチーム「BABY NAIL」結(jié)成。1998年、「JAPANESE SOUL BROTHERS」加入後「J Soul Brothers」のメンバーとなる。
2005年、東京・中目黒にブランドショップLMD(現(xiàn)・24karats)を立ち上げ、デザイナーを兼務(wù)。4thアルバム『ASIA』収録の「Why oh why…?」では初の作詞を手がける。
2007年1月5日深夜にフジテレビで放送された「EXILE〜6年目の真実」の番組內(nèi)で難病指定を受けている不全型ベーチェット病に侵されていることを告白し、左目の視力をほとんど失っていることを明らかにした。母親曰く、高校時(shí)代からべーチェット病だったという。メンバーも第一章の時(shí)から、MATSUがベーチェット病に侵されていることは知っていたが、左目がほとんど見(jiàn)えなくなるほど重くなっていたとはMATSU自身の口から告げられるまで知らなかったという。疲労が溜まると病狀が悪化し、熱が出て、動(dòng)けなくなる位になる。そうなると3日位は寢込まなければ治らないと話している。HIROはMATSUと話し合い、今後の選択をMATSU自身に任せた。MATSUは悩みに悩んだが、HIROに「EXILE続けます。たとえ失明したとしても後悔はないです」と言ったという。MATSU自身も「この病気を持っている自分の姿を見(jiàn)せることによって、自分と同じ病気を持っている人やその他の人たちに勇気を與えられたらと思いますし、自分の使命でもあると思ってます」と話していた。
2007年のツアーの初日の前日に父親を亡くしたが、當(dāng)日はステージに立った。亡くなる二日前に川崎の実家に訪れた際、指輪をもらった。MATSUはツアー中にその指輪をはめてステージに立っていた。
NORTH WAVE 82.5FMのラジオ番組「SESSIONS FOUR」の水曜日擔(dān)當(dāng)をAKIRAと共に努めている。
2005年9月に自身の単行本「Love Music Dance」を発売した。また、FLOOR netにて「MATSU (EXILE)の"Love Music Dance"」を連載中。
以前は喫煙者だったが、今は非喫煙者である。
USA(ウサ、本名:宇佐美吉啓(うさみ よしひろ)、神奈川県橫浜市、1977年2月2日 - 血液型:AB、身長(zhǎng)177cm、體重65kg)
「BABY NAIL」加入後、「JAPANESE SOUL BROTHERS」加入!窲 Soul Brothers」のメンバーとなる。EXILEでの活動(dòng)と並行して、2005年にはメンバーであるMAKIDAIと共に、ラップグループ「RATHER UNIQUE」を結(jié)成し、MCを務(wù)める。
現(xiàn)在居酒屋を経営している父親はかつてディスコで「ファンキー・サミー」と呼ばれたほどの人物で、EXILEのリミックス・アルバムのCMに出演し、EXILEとともに歌番組に登場(chǎng)しダンスを披露したこともある。桜塚やっくんの同級(jí)生であり、中學(xué)時(shí)代は、共にサッカー部に所屬していた。スピードワゴンの井戸田潤(rùn)はアルバイト先の先輩でもある(2006年12月4日放送「HEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMP」より)。
ダンスのテクニックはEXILEでナンバー1だと言われている。DOBERMAN INC.のTOMOGENも「クラブで踴ってるダチに聞いたら、USA君が一番ウマいゆうてました」と「Evolution.D」で話していた。
2006年から毎週木曜にInter FM76.1MHzのラジオ番組「Evolution.D」の司會(huì)を務(wù)めている。
雑誌『DANCE STYLE』にて『USA STYLE』を連載中!篋ANCE EARTH』2008年10月10日好評(píng)発売中。
MAKIDAI(マキダイ、本名:眞木大輔(まき だいすけ)、神奈川県橫浜市、1975年10月27日 - 血液型:O、身長(zhǎng)180cm、體重65kg)
中學(xué)3年生のときの文化祭にてダンスに目覚める。10代の頃から「アンダーグラウンド・ストリート・キッズ」というグループを結(jié)成し、都內(nèi)の駅前で踴っていたという。HIRO曰く、「BABY NAILイチのダークホース」。ZOOのメンバーが講師をしていたダンススタジオの生徒で、高校生の時(shí)からよくクラブやディスコに出入りする。神奈川大學(xué)経済學(xué)部貿(mào)易學(xué)科に入學(xué)するも2年で中退。1996年、MATSUと共に「BABY NAIL」を結(jié)成、アメリカのニューヨークへ留學(xué)しダンスの修養(yǎng)を積む。アメリカのクラブで黒人のダンスを見(jiàn)て、強(qiáng)い影響を受けたという。MISIAのバックダンサーを務(wù)めたり「つつみ込むように…」のPVにダンサーとして出演している。1998年、ダンスチーム「Hip Hop Junkeez」を結(jié)成。1999年、「J Soul Brothers」に加入し現(xiàn)在に至る。當(dāng)初、HIROが「J Soul Brothers」を結(jié)成するために「BABY NAIL」に聲を掛けたメンバーはMAKIDAIではなくRYUJIというダンサーだったが、RYUJIが事情があって抜けなくてはならなくなり、MATSUがMAKIDAIに聲を掛けたことで加入が決定した。
最初に観たライブがNHKホールで行われたZOOのライブだという。
2004年には本名でドラマ「ホットマン2」に俳優(yōu)として出演し、2007年3月公開(kāi)の映畫(huà)「渋谷區(qū)円山町」では主演を務(wù)める、その他は戀のから騒ぎ 〜Love StoriesⅤ〜「金星から來(lái)た女」(2008年10月10日、日本テレビ系)。バラエティ番組に本名で時(shí)々出演している。2005年にはメンバーであるU(xiǎn)SAと共にRATHER UNIQUEを結(jié)成し、MC兼リーダーを務(wù)める。この時(shí)期に同事務(wù)所のモデル、長(zhǎng)谷川潤(rùn)との交際が報(bào)じられたが、2008年に破局していたことが明らかとなった。
Hip Hop/R&Bに精通しており、クラブDJとしての顔も持ち、MIX CDも発売した。2005年からはJ-WAVEのラジオ番組「OH!MY RADIO」の月曜日擔(dān)當(dāng)を務(wù)めている。
ブレイク系のダンスを得意とする。以前、岡村隆史とブレイク対決をしたこともある。
ニューヨークに渡っていた頃、語(yǔ)學(xué)學(xué)校に行っていたため、英語(yǔ)が堪能である。エグザムライでも少しだが、英語(yǔ)を披露する場(chǎng)面があった。Black Eyed PeasのFergieやWill I Am、R&BシンガーのUsher、Anerieとも親交がある。
以前、野良犬を拾って保護(hù)したこともあるというように、溫和な性格である。
DJ MAKIDAI名義で初となるミックスCD「Treasure Mix」をリリースした。
AKIRA(アキラ、本名:黒澤良平(くろさわ りょうへい)、靜岡県磐田市、1981年8月23日 - 血液型:A、身長(zhǎng)184cm、體重74kg)
HIROに憧れ、16歳からダンスを始める。RATHER UNIQUEの元メンバー(USAとMAKIDAIとは違い、パフォーマーとして務(wù)めていた)。RAG POUNDにも所屬している。長(zhǎng)い手足を使ったパントマイム系のダンスを得意としている。渋谷のクラブで踴っていた時(shí)にそれを偶然見(jiàn)ていたMAKIDAIとUSAの目にとまり、「Rather Unique」のパフォーマーとして加入した。その後第二章開(kāi)幕にあたり2006年6月、メンバーに誘われEXILEに加入する。
MAKIDAIとUSAが初めてAKIRAに會(huì)った時(shí)、MAKIDAIとUSAはAKIRAのことを黒人だと思い英語(yǔ)で聲を掛けたという。當(dāng)時(shí)を振り返ってAKIRA自身も自分が黒人だと思いこんでいたと述べている。1995年に観たSMAPのライブでの岡村隆史のダンスに強(qiáng)い影響を受けたという。
NORTH WAVE 82.5FMのラジオ番組「SESSIONS FOUR」の水曜日擔(dān)當(dāng)をMATSUと共に努めている。
2008年、TBS系「Around40〜注文の多いオンナたち〜」でドラマ、「花より男子F」で映畫(huà)デビューを果たした。
本名ではなく「AKIRA」となったのは「クロサワといえばアキラ(黒澤明)」と言われたため。
女優(yōu)の長(zhǎng)澤まさみは小學(xué)校の後輩にあたる[2]。
他メンバーの立ち位置は変わらず(HIROとUSAは正面から見(jiàn)て右側(cè)、MATSUとMAKIDAIは正面から見(jiàn)て左側(cè))、AKIRAは新たにヴォーカル二人の間の少し後ろがポジションとなった。
ヴォーカル
ATSUSHI(アツシ、本名:佐藤篤志(さとう あつし)、埼玉県越谷市、1980年4月30日 - 血液型:A、身長(zhǎng)175cm、體重67kg)
4歳より高校卒業(yè)時(shí)までクラシックピアノを習(xí)う。高校在學(xué)中にボーカルとして誘われて組んだバンドがきっかけでヴォーカリストを志すようになる。元々は父親が普段からギターを片手に歌っていたことにも影響を受けたという。高校卒業(yè)後、専門(mén)學(xué)校(ESPミュージカルアカデミー)でヴォーカリストとしての技術(shù)を磨く。在學(xué)中に何度かオーディションを経験し、2000年にテレビ番組「ASAYAN」主催の男子ヴォーカリストオーディションで最終選考まで殘る。しかし、「これから伸びていくであろうシンガーを発掘する」という主催者側(cè)のコンセプトに合わず落選。このとき優(yōu)勝したのがケミストリーである。オーディション落選後、半年間、渋谷のクラブなどで歌う生活を送っていたが、ATSUSHIの存在を知ったHIROからコンタクトがあり、結(jié)果として2001年にEXILEの前身「J Soul Brothers」へ加入することとなる。なお、この時(shí)點(diǎn)では1ヴォーカル・4パフォーマーとなる予定であった。
EXILEにとって唯一無(wú)二のヴォーカルであると同時(shí)に、看板を背負(fù)っている。メンバーは「ATSUSHIの聲は俺たちの夢(mèng)」と話している。ジムに通う以外に空手を習(xí)い、心身を鍛えていると話していた。
2004年12月、EXILEでの活動(dòng)と並行して4人組コーラスグループ「COLOR」を結(jié)成(2006年12月にメンバーチェンジし自身は脫退、プロデュースに専念)。多くの楽曲を提供している。
坊主頭にサングラスがトレードマーク(2003年5月頃までは坊主頭ではなかった)。坊主にした理由として、格好をつける自分に嫌気がさしたからと述べている。また、髪型を気にしなくて済むからとも話している。サングラスをかけていた理由については、最初「ストレスで顔がむくんだこともあったからそれを隠すため」と話していたこともあった。
愛(ài)用のサングラスはデリーゴ社(イタリア)の「POLICE」ブランド。2008年9月には同社と契約を結(jié)び、POLICEブランドの日本のイメージキャラクターとなり、11月にATSUSHIモデルが発売される予定。
2005年の終わり頃から喉の酷使により、ポリープを患い、SHUN脫退後から第二章開(kāi)幕の間に手術(shù)を受ける。ATSUSHIはその他にもSHUNの口から辭めると告げられた時(shí)不安に苛まれ、酒を飲まなくては寢れない日々が続いたらしく、二日酔いの狀態(tài)のままステージに立っていたことも原因の一つだろうと語(yǔ)っている。入院中、様々なことを考える時(shí)間が出來(lái)たため、「Giver」や「Yell」といった曲の歌詞を書(shū)いたりしていたという。また、この出來(lái)事を通じて、「歌うことの喜びを強(qiáng)く感じるようになった」と話しているように、自身を大きく変える出來(lái)事となったという。
久保田利伸を尊敬しており、2007年3月9日には多數(shù)の邦楽歌手が集結(jié)した「MTV iCON 久保田利伸 powered by 楽天オーディション」で共演。日本初のi CONに選ばれた久保田利伸と共演、「Indigo Waltz」を披露した。ATSUSHIはASAYANでも、同氏の「Missing」や「Cymbals」を歌っている。なお、「Cymbals」は久保田利伸のトリビュートアルバムで「ATSUSHI from EXILE」として、カバーしている。
第二章としてのCDのリリース前に、2006年10月に憧れていたBoyz Ⅱ Menと競(jìng)演を果たす。Boyz Ⅱ Menのウォンヤは「ヴォーカルディレクションでも全く直す所がなかったよ」と絶賛していた。
右胸のタトゥーは『i'm gentle and convey true love』と彫ってある。背中には「EVOLUTION」と掘られている。右腕には19歳の時(shí)に入れた、平和の象徴となるバッファロー。ATSUSHI自身、「タトゥーは見(jiàn)せびらかすために入れたんじゃなくて、何かに逃げたくなったり後戻りしたくなった時(shí)、支えてくれるものが欲しかった。それがこのタトゥーで、音楽で生きていこうという自分自身への誓いを立てるために入れた」と話している。
第一章の時(shí)は自分が一番年少者だったが、TAKAHIROが入ってきてからそれが変わり、「TAKAHIROを引っ張っていかなくてはいけない」という意味でも責(zé)任感が出てきたと話している。
viviにて、「ATSUSHIのJAM SESSION」を連載中。
喫煙は、止めてはまた吸い始めることを繰り返していたが、HIROの「ATSUSHIが吸うんなら俺も吸うぞ」という一言で喫煙を止めたという。
「ESPミュージカルアカデミー」ではATSUSHIが學(xué)校のポスターの表紙となっている。
総制作期間8年を費(fèi)やし、日中ボランティア団體が作り上げた、日中合作映畫(huà)「純愛(ài)」のためにノーギャラで詞・作曲共に自身で作り上げた「INORI」を提供している。リリースの予定は今のところないらしく、「もし出ることになるならば、損得が関わらない形で出したいと思う」と話している。
TAKAHIRO(タカヒロ、本名:田﨑敬浩(たさき たかひろ)、長(zhǎng)崎県佐世保市 、1984年12月8日 - 血液型:O、身長(zhǎng)180cm、體重63kg)
沖縄空手を12年やり(日本武道館の全國(guó)大會(huì)に団體戦で出場(chǎng)、5位入賞)有段者。両親の後を継ぐために福岡県美容専門(mén)學(xué)校を卒業(yè)後、美容室「MINX」で見(jiàn)習(xí)いをしていた時(shí)期もある。雑誌でカットモデルをしていた経験も有り。特技は空手(初段)、書(shū)道(八段)、絵畫(huà)と演歌を好み、20歳の頃から、よく演歌(主に前川清、五木ひろし)を聴きながら晩酌すると述べている。
友人に誘われ同伴した2005年のツアーで、「運(yùn)命のヒト」を聴き、深く感銘を受ける。その日をキッカケに友人から「EXILE狂い」と呼ばれ、「家で聴く音楽も、カラオケで歌う曲も全てEXILE。それ以外で聴いていたのは演歌だけ」だと言う程、EXILEの大ファンとなると同時(shí)に歌手への道を志すようになる。父親の「人生は一度しかない、やりたいことをやれ」という一言で美容院を辭め、肉體労働で金を稼ぎ、夜にレッスンに通うようになる。SHUNの脫退に伴うオーディション「EXILE Vocal Battle Audition 2006〜ASIAN DREAM〜」の開(kāi)催を知り、東京會(huì)場(chǎng)から參加して勝ち上がり、2006年9月22日、日本武道館における最終審査を制し、新ヴォーカリスト・7人目のメンバーとしてEXILEに加入した。
同年7月10日放送の日本テレビのオーディション番組「歌スタ!!」ではメインコーナーである「廻る!運(yùn)命のうたちだい」でEXILEの「運(yùn)命のヒト」を歌って合格し、作曲家林哲司から曲の提供を受けメジャーデビューすることになっていたが、その後林のHPにて、経緯の詳細(xì)は伏せられているが曲提供の件が破談になったと発表されている。この件について「歌手になりたい、というより、EXILEになりたかった」とコメントしている。
同年8月3日よりミュージカル・テニスの王子様にも海堂薫役として出演する予定となっており、公式HP上及び関連誌上でもコメント掲載などが行われていたが、7月24日に急遽「體調(diào)不良」を理由に降板を発表し、7月30日、「EXILE Vocal Battle Audition 2006」の一次予選東京會(huì)場(chǎng)に參戦した。
2007年3月1日、TAKAHIROの母校、長(zhǎng)崎県立佐世保東翔高等學(xué)校の卒業(yè)式にてサプライズライブが行われた。
TAKAHIROを選んだ理由としてメンバーは「とにかく人に接する態(tài)度が素晴らしかった。リハーサルを重ねるうちに、彼のパフォーマンスに対する真剣さやEXILEへの想いが伝わってきた。なにより、“人間力”があるというか、“目力”がある。我々の探し求めていた人材だ」という。また、「一番存在感があった。キャラ的にも合ってるし、第二章を進(jìn)化させるとしたらT(mén)AKAHIROしかいないと思った」とも話している。ATSUSHI自身も「禮儀正しくて素直で、レコーディング審査の時(shí)に僕の聲と重なった時(shí)、言葉に出來(lái)ない良さを感じました」と話している。また、當(dāng)時(shí)放送していた「RZTV」で「TAKAHIROの歌を聴いた時(shí)、彼と共に歩んでいく未來(lái)を予感した」と話していた。決める時(shí)は全員一致でTAKAHIROに決めたという。TAKAHIROも「頭がおかしくなりそうな位嬉しいです。1萬(wàn)人分の責(zé)任を持って、『こいつなら仕方ないな』と言われる位に頑張りたい」と話していた。
SHUN(シュン、本名:清木場(chǎng)俊介(きよきば しゅんすけ)、山口県宇部市、1980年1月11日 - 血液型:O、身長(zhǎng)173cm、體重63kg)
幼い頃に父親の影響で尾崎豊と、長(zhǎng)渕剛の曲に觸れ音楽への道を志すようになり、中學(xué)生の頃から地元である山口でバンド活動(dòng)、ギターの弾き語(yǔ)りを行う。中學(xué)生の頃に、教師に「とりあえず座っているだけでいいから授業(yè)に出ろ」と言われ、「ただ座ってるだけじゃつまらないから」と詞を書(shū)き始めていた。高校1年の時(shí)、兄のことを侮辱した教員を暴行し、退學(xué)になった。高校中退後はトビ、鍛冶屋、大工等のバイトに攜わる。持っている資格は危険物取扱者丙種、車(chē)両系建設(shè)機(jī)械運(yùn)転技能講習(xí)。19歳頃に建設(shè)関連の會(huì)社を設(shè)立。會(huì)社の社長(zhǎng)として働く一方で、仕事が終われば詞を書(shū)き溜め、休みの日は路上で語(yǔ)り弾きをしていた。その頃ATSUSHI同様「ASAYAN」の男子ヴォーカリストオーディションを受け、第3次審査まで進(jìn)むも審査員の態(tài)度に腹を立て辭退。その後、最後の覚悟の上、地元テレビ局のボーカルオーディションを受け優(yōu)勝、偶然その場(chǎng)に居合わせたavex社員の目に止まる。その後、HIROはATSUSHIとSHUNに「レコーディングやるから」と言って、急遽行った「Your Eyes Only」の英語(yǔ)版のレコーディングの時(shí)に初めてSHUNの歌を聞き、一発で惚れ込んだという。こうして、1ボーカル・4パフォーマーで行く予定だったが、ボーカルは二人となり、J Soul Brothersの「SHUN」としてデビューすることとなった。
音楽學(xué)校で音楽を?qū)Wび、レッスンを受けてきたATSUSHIとは逆に、ストリートの世界で歌い続け、獨(dú)學(xué)で歌を身につけたボーカルである。ただ、ボイトレはやっていたようだが長(zhǎng)続きしなかったという。HIROに出會(huì)うまでダンスも全く知らず、また初期には音楽性の違いでATSUSHIと衝突したこともあった。ATSUSHIが喉を悪くした時(shí)、煙草を吸っていたスタッフに「ATSUSHI、喉悪いんで止めてもらえますか?」と言ったというように、仲間想いの一面もある(ATSUSHIは「6年目の真実」にて、その言葉を思い出して涙していた)。
EXILE在籍中はシングル曲、アルバム曲問(wèn)わずEXILEの楽曲の作詞を多數(shù)手がけた。初期のライブでは想いを伝えることに重點(diǎn)を置き過(guò)ぎるため、歌っている途中に泣き出してしまうことがしばしばあった。
ジムが嫌いなようで、ボクシングをして體を鍛えているという。ツアーの際はいつもサンドバッグを持ち歩いていたという。
2005年1月、本名でソロデビュー。EXILEのSHUNとは異なり、ロック路線へ転向している。
2006年3月27日、公式ホームページ上で突如EXILE脫退を発表し、2006年3月29日付で正式脫退。2005年の同時(shí)期にメンバーに脫退の意を申し出たという。メンバーも動(dòng)揺する一方、「いつかSHUNちゃんがEXILEを出て行くであろうことは予想していた」と話していた。脫退後はソロ活動(dòng)に専念。脫退の動(dòng)機(jī)として「『SHUN』として納得のいく様に唄えなくなった、このままでは自分が自分としてここに居ることが噓になってしまうと感じた。そんな気持ちのままで歌うのはEXILEのメンバーにもファンにも失禮なことなんじゃないかと思った。ただ、一つだけ言っておきたいのは、EXILEが嫌になったわけでもなければ、単純にソロに集中したいから辭めるわけでもない。自分が自分であるために、貫きたいことを貫くために脫退を決意した」と述べている。2004年ごろには既に悩んでいたようで、HIROが出版した『Bボーイサラリーマン』には、かつてSHUNがスタッフとのトラブルが原因で、ツアーのリハーサルを5日間無(wú)斷で休んだ後、脫退を申し出たというエピソードが書(shū)かれている。毎日jpのインタビューで「僕の中でEXILEとしてできることは完結(jié)した。アリーナクラスでライブをし、ミリオンを獲得して『頂點(diǎn)』が見(jiàn)えたと納得した。悪い意味ではなく、表現(xiàn)者として新しいところを求めたくなったんです」 とも話している。
脫退してからもEXILEのメンバーとは親交がある。TAKAHIROのことも「最高のヴォーカリスト」と認(rèn)めていた。EXILEを脫退した當(dāng)時(shí)は思い出さないようにガムシャラに仕事に打ち込んでいたようだが、時(shí)が経ち「冷靜に見(jiàn)られるようになってきた」というように、2007年のライブの大阪會(huì)場(chǎng)にも顔を出した。ATSUSHIはSHUNが脫退してから2年経った2008年現(xiàn)在でもSHUNのことを語(yǔ)る時(shí)は涙することがある。最後の出演となったMUSIC STATIONでタモリに「SHUNはどんなメンバーだったか?」と聞かれた時(shí)に、「歌手としての相方としてもそうだが、人間的にも凄く勉強(qiáng)になるところがあったし、本當(dāng)に最高の相方だった」と話していた。
清木場(chǎng)自身、「観客としてEXILEを見(jiàn)たらやっぱり格好良くて、以前より益々ファンになった。自分があんな素晴らしいグループにいたことを誇りに思う」と話していた。
2008年9月17日付けで所屬事務(wù)所LDHとavexからも獨(dú)立した。
また、「練習(xí)してうまくなるのは好きじゃない。歌は一発の感覚。レコーディングも、ほぼ一発録りです。曲や歌詞からのイメージをふくらませ、突き詰めてから本番に臨む。その新鮮さをずっと求めています!工趣いΕ荪辚珐`を持っているという。
小簡(jiǎn)介
初めの頃の給料は15萬(wàn)円プラス歩合だったという。J Soul Brothersでの売れなかった時(shí)期は給料は6~10萬(wàn)位で、生活も困窮し観客0人の時(shí)期もあったという。ひどい時(shí)はメンバーで味噌汁を水で薄めて、人數(shù)分で分け合って飲んでいたという。公園でしわくちゃのシャツを著たまま、ダンスの練習(xí)していたこともあったという[1]。
EXILEのモデルになったグループはいくつかあり、その中でも一番影響を受けたのがアメリカの大所帯HIP HOPユニットのウータン・クランで、MAKIDAIが言うには「ウータン・クランはグループの在り方とかエンターテイメント性とか共鳴するところが多い。一軍のメンバーは映畫(huà)出たり、洋服屋をやるメンバーもいる。EXILEがモデルにしたユニットのひとつといっても過(guò)言ではないです」とのこと。また、MAKIDAIが言うにはブラック・アイド・ピーズの音楽のジャンルを問(wèn)わないスタイルにも大きな影響を受けたという。
多くのアルバムにインストが収録され、それらはライブでパフォーマーがダンスする際に用いられることが多い。ちなみに『EXILE EVOLUTION』に収録されている「DANCER'S ANTHEM」はオカザイル効果もあって、著うたランキングでトップ10に入ったことがあった。
楽曲やグループとしての方向性を決める際にはメンバーで會(huì)議を開(kāi)いて話し合うという。以前、HIROが「ライブのリハーサルの6,7割が実は話し合いで終わる」と話していた。また、振り付けは自分たちで決めているという。
脫退したSHUNも含めた初期メンバーの6人全員が50萬(wàn)円ずつ出資し、有限會(huì)社エグザイルエンターテイメント(現(xiàn):株式會(huì)社LDH)を立ち上げた。メンバー全員が社員であり、HIROが社長(zhǎng)を務(wù)めている。2003年の終わり頃にある會(huì)社と合併し、株式會(huì)社LDHとなった。
HIROの提言により、EXPG (EXILE PROFESSIONAL GYM) を開(kāi)講。ダンスの基礎(chǔ)はもちろん、EXILEの楽曲の振り付けの指導(dǎo)も行っている。
2004年からはソロプロジェクトも展開(kāi)しており、ドラマ、バラエティ番組にも出演している。2007年5月には、HIROを除くパフォーマー4人が「劇団EXILES」を結(jié)成し、舞臺(tái)進(jìn)出(HIROはゼネラルプロデューサーに就任)。同年9月20日よりステラボールにて25公演を行った。
グループからの派生ユニットが多く、後述の「EXILES」に加え「EXILE VOCAL BATTLE AUDITION 2006」出身者5名で構(gòu)成された「Dreamers」、同オーディション出身者の「JONTE」、EXILEの前身「J Soul Brothers」の名を継いだ同名のグループが存在する。
自身のアパレルブランド、「混じり気のない本物」をコンセプトにした「Gold 24karats Diggers」を展開(kāi)。現(xiàn)在は東京の中目黒と大阪の心斎橋に店舗を構(gòu)えている。
ZEEBRAが以前ラジオでクラブで踴ってるダンサーが増えてきたと話しており、EXILEあたりの影響が大きいと話していた。
ある競(jìng)走馬に「ウマザイル」と名前を付けた。ちなみにそのウマザイルのデビュー戦は6著に終わった。
デビュー當(dāng)初はJ Soul Brothers時(shí)代の路線を引き継ぐように、R&Bテイストのダンスナンバーを數(shù)多く取り入れていたが、プロデューサーのMax Matsuuraが離れた後はポップス路線に移行していく。特に2003年の『Together』のヒット以降この傾向は顕著となり、同作品の作曲を手がけた原一博による楽曲が量産されることとなる。この時(shí)期にメンバー達(dá)の間で、キャッチーなポップス曲のことを指す「エグキャッチー」という言葉が生まれている。音楽性の変化に合わせてボーカル二人(特にSHUN)による作詞の曲が占める割合が増していった。ATSUSHIはviviのインタビューにて、「最初はR&Bっぽく歌おうと無(wú)理していた。けど、Kiss youあたりからいい意味で力が抜けてきて、無(wú)理にR&Bを抱えなくても、日本人として伝えなくちゃいけないことがたくさんあると気付いたんだ」と話している。 第二章開(kāi)幕後は「エグキャッチー」に加え、「Lovers Again」や「彼方から此処へ」のようなミディアム系統(tǒng)の曲を「エグセツナ」と稱(chēng)するようになった。同時(shí)にATSUSHIによる作詞が大幅に増え、第一章最後のアルバム『ASIA』では3曲だったのに対し、5thアルバム「EXILE EVOLUTION」では15曲中5曲、6thアルバム『EXILE LOVE』では12曲中半分を占めるようになった。
曲をレコーディングする際には方向性をメンバー同士で打ち合わせをし、レコーディングスタジオにも全員が來(lái)る。レコーディングしている際にダンスの振り付けも考えるという。R&BやHIP HOP系の音をベースした曲を作る際はトラックメイカーにいくつかトラックを用意してもらい、メンバー內(nèi)でしっくりと來(lái)る曲を選ぶという。その上で歌詞を書(shū)いたり、ハモりを積んでいく。よほどのことがない限り、トラックから先に制作を始めるという。曲によっては、海外でレコーディングすることもある(主にGIANT SWING夫妻の拠點(diǎn)であるアトランタ)。なお、第二章以降ボーカルディレクション、TAKAHIROへの指導(dǎo)も主にATSUSHIによって行われている。パフォーマー達(dá)も歌うテーマに関しての意見(jiàn)は言うが、歌に関してはボーカル二人に全て委ねているという。