玉置浩二(たまき こうじ、1958年9月13日-) - ボーカル、ギター、パーカッション
矢萩渉(やはぎ わたる、1957年6月27日-) - ギター
武沢豊(たけざわ ゆたか、「佑昴」とも。1958年5月16日-) - ギター
六土開正(ろくど はるよし、1955年10月1日-) - ベース、ピアノ、キーボード
田中裕二(たなか ゆうじ、1957年5月29日-) - ドラムス
小簡介
レッド・ツェッペリンやジャクソン・ブラウンに憧れていたことからわかるように、結成から『ワインレッドの心』のリリースまでは當時の洋楽を強く意識しており、歌詞の一人稱も「俺」が頻繁に使われている(一部の楽曲では「僕」も使う)。
『ワインレッドの心』のヒットでメディアへの露出が一気に増えた結果、作風も徐々に変化していった。井上陽水から松井五郎へと作詞擔當がバトンタッチした形になり、妖艶かつ繊細な歌詞でファン層を大幅に拡大した。しかし、玉置を始めメンバーが當初目指していたバンドスタイルとは異なる形での人気高騰に、激しいジレンマを抱えながらの活動が続くことになる。
1986年の『プルシアンブルーの肖像』、『安全地帯V』では、童謡を歌うなど、新たなジャンルの楽曲に挑戦し、新境地を切り開く。
1988年のアルバム『安全地帯VI〜月に濡れたふたり』、シングル『微笑みに乾杯』は、男女の戀愛をテーマにしてきた安全地帯の作風に區(qū)切りをつける作品となり、2年間の充電期間に入ることとなる。この期間の玉置は俳優(yōu)業(yè)をやりながら、模索をしていた時期とされている。
1990年の活動再開で、安全地帯は大きな作風の転換を迎える。玉置自身も作詞に攜わるようになり、故郷の北海道やともに過ごした人々をテーマにした楽曲が數(shù)多く作られるようになった。ルックス面では、バブル期にみられたような派手な服裝や化粧をしなくなった。この変化に女性を中心とした従來からのファンはとまどいを隠せなかったが、それは本來の安全地帯への回帰でもある。
1993年以降の玉置のソロ活動で、その路線はより強くなっていく。一方で笑いやいい加減さなど、自由な作風が目立つようになる。
2002年の安全地帯再始動後はスローペースな楽曲が多くなり、ラブソングというよりも人生そのものを大きく捉えたメッセージソングが作られるようになる!喊踩貛〜雨のち晴れ〜』の作詞には新しく黒須チヒロを起用し、それまでとは異なったタイプの作品で新しいファンを獲得するとともに、古くからのファンにも新たな一面を見せた。
ソロ・バンド問わずほとんどどの楽曲は玉置自身の作曲によるものである。しかし安全地帯の作風と玉置浩二の作風は、編曲の段階におけるシンセサイザー・打ち込み・空間系エフェクターの採用の有無といった點において大きく異なる。安全地帯が80年代當時最新鋭であったギターシンセの採用や、打ち込みといったデジタルな加工を積極的に取り入れていたのに対して、玉置浩二のソロ作品においては打ち込み等を極力排しており、ボーカルにエコー等をかけることも避ける傾向にある。これは、玉置浩二自身の意向のほか、武沢豊や川島裕二といったデジタルな加工に長けた人物の參加の有無によるところが大きい。
最近は、両者とも作風に違いが見られなくなったという指摘もあるが、家族のような重みのある安全地帯に対し、自由で軽い乗りの玉置浩二という方向性の違いは認められる。
大事件
デビューまで
メンバーは何度かメンバーチェンジを経て、現(xiàn)在の5人に定著。 旭川において長期にわたる合宿を行い実力をつけ、數(shù)々のコンテストで入賞。 北海道で実力No.1のアマチュアバンドとなる。
結成當時は別のバンド名だったが、かつて旭川市を走っていた路面電車(旭川電気軌道)の電停にある安全地帯の標識が、Victoryの頭文字Vに似ていたことから、バンド名が「安全地帯」になった。
英語表記は、「Safety Zone」。交友のあるミュージシャンの一人、さだまさしが休暇でハワイに行った時、職業(yè)柄、ハワイの音楽スタジオに行ってみた。今、どのバンドが使っているか今日のスケジュールを見たところ、「Safety Zone」と書いてあったので、さだはどんなバンドかと思って覗いてみたら、安全地帯が演奏していて玉置が歌っていたので、吃驚した。というエピソードがある。
1980年代を代表するロックバンドに
1981年、井上陽水のバックバンドとして上京。1982年にキティレコード(現(xiàn)・ユニバーサルミュージック)と契約し、『萠黃色のスナップ』でメジャーデビュー。
1983年、サントリーから発売された「赤玉パンチ」のCMソングに起用された『ワインレッドの心』が大ヒット。一躍全國にその名が知れ渡る。 その後も『戀の予感』、『熱視線』等の楽曲を立て続けにヒットさせる。 ボーカルの玉置浩二の奇抜な衣裝と圧倒的なボーカル、その他のメンバーによるハイレベルな演奏が支持を受け、1980年代を代表する人気グループの地位を不動のものにする。1985年には『悲しみにさよなら』が大ヒット。TBSのザ・ベストテン、日本テレビ「ザ・トップテン」年間第1位に輝き、同年のNHK紅白歌合戦出場を果たした。1986年には、神宮球場においては初となるコンサートを井上陽水と共に行い、大成功を収める。また、同年12月にはアナログ盤にして3枚組となるアルバム『安全地帯V』を発売するなど、快進撃を続ける。
なお、『ワインレッドの心』 、『戀の予感』、『Friend』などが中國香港でカバーされそれぞれヒットしたこともあり、中國香港での人気も高かった。
1987年は、安全地帯の活動と平行して個別の活動も進められ、夏に玉置自身初のシングルとアルバムをリリースするなど、多忙な時期だった。
活動休止、その後
1988年秋、中國香港コロシアムでのコンサートを最後に突然活動休止を宣言。主な原因として、6thアルバム『安全地帯VI〜月に濡れたふたり』の出來映えに対して、玉置自身が強い不満を持っていたためとされる。休止期間中、5人は個別の活動に入る。
1990年、7thアルバム『安全地帯VII〜夢の都』のリリースを機に活動を再開。翌1991年には『安全地帯VIII〜太陽』をリリースする。しかし、1992年12月、アコースティックスタイルでのコンサートツアーを終えたことにより、再び活動を休止。すでにレコーディング済みのシングル『ひとりぼっちのエール』は翌1993年2月10日にリリースされる。
活動休止を境に玉置は、ソロと俳優(yōu)業(yè)を中心とした活動に移行し、武沢はプロデュース業(yè)に専念、他のメンバーも個々の活動に入る。この時、安全地帯の所屬會社がキティレコードからソニー・ミュージックエンタテインメントに移っている。活動休止の後しばらくして、安全地帯を再開する予定だったが、1994年に武沢豊の脫退が発表され、殘りの4人は、玉置浩二のソロプロジェクトで當分の間活動することになる。當時のバンドは4人とサポートメンバーを合わせ、安全地帯を名乗っていた。
1998年夏、旭川市郊外の野外ライブ「旭川ライブジャム」で6年ぶりにメンバー5人全員が出演する。その後グループでアルバム制作を進めていたが、途中で作り直され、2000年に玉置名義でリリースされる(玉置浩二『ニセモノ』)。
2001年、安全地帯のレコーディングを開始する。
2002年夏に10年ぶりのシングル『出逢い』がリリースされる。発売前、5人揃って記者會見が行われた。同年に9thアルバム『安全地帯IX』が発売され、同年秋からツアーが始まったが、武沢は怪我のため殘念ながら參加できなかった。
2003年には10thアルバム『安全地帯X〜雨のち晴れ〜』がリリースされる。ツアーでは5人全員が揃い、同年秋には、かつて安全地帯の活動の場であった「渋谷エッグマン」でライブを行う。安全地帯のツアーは2003年12月で全日程を終了した。
ツアー終了後の2004年以降は、グループ活動を休止し、個々の活動を続けている。