淺井健一(あさい けんいち、1964年12月29日 - )は、愛知県名古屋市出身のロック歌手、ギタリスト、音楽プロデューサーである。また、インディーズレーベル・Sexy Stones Records代表取締役社長を務める。
身長171cm、體重59kg、血液型AB型。グレッチ・テネシアン、フェンダー・ジャズマスター 、ギブソン・レスポールなどを愛用する。
1990年、バンドBLANKEY JET CITYとして「三宅裕司のいかすバンド天國」に出演。第25代目イカ天キング(6代目グランドイカ天キング)となり翌年メジャーデビュー。以後、2000年7月9日橫浜アリーナ2Days「LastDance」にいたるまでの10年間活動を続けた。
解散後は、以前よりソロワークとして結成していたSHERBETSに活動の主軸を移す。また、同時期に獨自のレーベル“SEXY STONES RECORDS”を設立する。 以降、SHERBETSと平行する形でUAをボーカルに迎えたAJICO(2001年)や、新たなスリーピースバンドJUDE(2002年2月)を結成し精力的な活動を続けた。 2006年7月からは、淺井健一ソロ名義での活動をスタートさせ、1st ALBUM『Johnny Hell』を発表。そして2007年6月にはアルバムを同時に2枚リリースし全國26本のツアーを行った。
現(xiàn)在は女性ロックバンド、LAZYgunsBRISKYのプロデュースも行っている。
音楽以外の活動としては、數(shù)冊の畫集・絵本などを発表しており、2008年5月より初の個展を開いている。
小簡介
愛稱は「ベンジー」(Benzie)。 映畫「グローイング・アップ」の主人公・ベンジー少年に似ている事から、Blankey Jet Cityのベーシスト照井利幸に名づけられた。この印象的な愛稱と愛用のグレッチギターは、彼のファンである椎名林檎の歌「丸の內サディスティック」の歌詞にも登場する。
17歳の時にバイク事故で入院したことをきっかけに、絵や詩を創(chuàng)作するようになった。絵畫を描くこともあり、これをフィーチャーした本も出版されている。モデルの小野寺マリと結婚、三人の子供がいる。歌詞やその比喩には過去の映畫作品を引用することが有り、一種の虛無的、皮肉的な特徴を生んでいる。しかし本人はその點を強く意識している訳ではなく、あくまで思いつきが結果そうなると否定的な発言している。ブランキー時代の一部の曲は、解散後の各バンドでもよく演奏している。
推奨書籍として前野徹の『新・歴史の真実』をインタビューで繰り返し挙げている。また、安倍晉三の首相辭任に関して、幼稚なマスコミが引き摺り下ろした、という見解を表している。
「ROCKIN'ON JAPAN」誌上の発表によると、2002年、淺井が同誌上に掲載されたJUDEの最新アルバムのレビュー(「出來れば一枚にまとめてほしかった」「リラックスした淺井も悪くない」などと評論/執(zhí)筆者は外部ライターの遠藤利明)に怒り、スペースシャワーTV「ウルトラカウントダウン」の生放送中に「あのレビューにはすごく傷ついた。ROCKIN'ON JAPANは買わないでほしい」と発言。これに対しジャパン編集部は、淺井のマネージャーと連絡を取り、今回の件について話し合いをしたいと告げた。しかし、面會に向かった編集長の兵庫慎司(當時)は事務所に入るなりマネージャー・堀から「お前なめてるだろう」「取材したいと言っておいて何だあの記事は」と恫喝される。その直後に無言のままの淺井と堀は兵庫の顔面を毆り、倒れたところを背中や腰を何度も蹴った末「もう二度と顔を見せるな」と、兵庫を部屋の外へ放り出した、と報じられた。
淺井自身のインタビューによると、(雑誌「音楽と人」において/インタビュアーは青木優(yōu))「あのことはもう終わったこと、俺達が悪者で良いじゃん」「事実と違うことも書かれて、納得はしてないが、もう関わりたくない」などと発言し、ロッキング・オン側が淺井本人に謝罪文を要求するも、淺井サイドは「基本的に悪いことはしていない」とこれを拒否。真相は未だ不明。
この事件が起こる以前、淺井はライブでSherbetsの曲「38special」の歌詞を変え、「ロッキングオンジャパンとかさー、なんか腐ってない?」などと度々歌っており、上記の暴行事件報道に至るまでに、ディスクレビュー以外にも幾つかの伏線があったことが推測される。またこの事件以後、淺井はライブでこの歌を歌っていない。
「ROCKIN'ON JAPAN」の社長渋谷陽一はブランキーの1stから3rdまでのアルバムをリアルタイムで非常に高く評価しており、初期の頃からアルバム発表時には同誌の表紙を幾度と無く飾っていた。